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『夜と霧』 ヴィクトール・E・フランクル

第2次世界大戦中のユダヤ人強制収容所での経験を心理学者の視点から語る永遠のロングセラー。

ネットで読むべき本100冊みたいなもので激オシされていたのでポチった。

最初はタイトルを見てもっと物語性の高いものだと思っていたのだが、たしかに、心理学者の視点から経験を語るという独特な手法で、主観的な事象と客観的な事実が自然に、巧みに織り交ぜられていた。

一日で読んでしまい、ちょっと物足りないくらいに思っていたのだが、その日の夜には強制収容所の経験をSF化したような夢を見た。ここまでビビットに夢に影響を与えるということは相当なパワーを持っていたのだろう。


書き留めておきたいのは2箇所。

愛に関する部分とユーモアに関する記述。



部外者にとっては、収容所暮らしで自然や芸術に接することがあったと言うだけでもすでに驚きだろうが、ユーモアすらあったといえば、もっと驚くだろう。もちろん、それはユーモアの萌芽でしかなく、ほんの数秒あるいは数分しか持たないものだったが。

ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在に備わっているなにかなのだ。

。。。

たとえば、こうも言えるだろう。人間の苦悩は気体の塊のようなもの、ある空間に注入された一定量の気体のようなものだ。空間の大きさに関わらず、気体は均一にいきわたる。それと同じように、苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。人間の苦悩の「大きさ」はとことんどうでもよく、だから逆に、ほんの小さなことも大きな喜びとなりうるのだ。


この手前に歌を歌ったり、詩を披露するようなことが収容所の中でも行われており、それは人間性を維持するためにとても有用だったという記述がある。COVIDのときに芸術の有用性が議論されたことを思い出した。




そして私は知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質」に深く関わっている、ということを。愛する妻の「現存」、私とともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、全く問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。知るすべがなかった(収容生活を通して、手紙は書くことも受け取ることもできなかった)。だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。

「われを汝の心におきて印のごとくせよ・・・其は愛は強くして死のごとくなればなり」



自分的にはクライマックス的な描写だった。愛について考えるときに、主観的なるものとして捉えるとそれは非常に自己中心的なものだと感じられる。仮に、愛し合っている二人がいたとして、それは二つの愛が溶け合っているのではなく、AからBへの愛とBからAへの愛が同時に進行しているだけだと考えられる。だが、そんなことを考えるとちょっと虚しくなったり悲しい気分になったりするじゃないか?でも、作者は強制収容所という極限状態の中でこの愛の心理を見つけたのだ。

これを愛の他の事象にも敷衍して考えると、結果的には自己という超中心によってしか世界は成立し得ないのだとわかる。








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