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『緋文字』 ホーソーン

三週間の獄中生活を経て、ようやく自由になった。

というのも義母テロで突如やってきた後に3週間いた義母がようやく帰ってくれたからである。

実際の刑務所がどんなところか知らないが、最近は刑務所に以前6ヶ月入っていたことがあった事実を思い出す、という夢を見た。

自宅にいながら羽を伸ばせず、快適に過ごせないのは軟禁、というのか。

とまれ、今はようやくハッピーになれたし、適度な弾力のベッドでふかふかの布団と妻と一緒に寝られるし、赤ちゃんの面倒も家事もやりたいようにできるので何も言うことはない。


さて、仕事を辞め、子供が生まれ、特に何もやることがない私は何をしていたかと言うと、映画を見たりYoutubeを見たり、本を読んだりしていた。合間にちょっと職探しやリサーチ、ブログなどをやっていたが、やはりこんなに長い期間の自由時間があってもあまり有意義に時間を使うことはしていないという悲惨な現実を直視しなければならない。

とはいえ、そのうちの数パーセントでも教養のためになっていることもあるので、ここでアーカイブしていこうと思う。

出産前後に読んでいた素晴らしき新世界は別の機会にまとめるとして、今回は先日読み終わったホーソーンの緋文字について。


アメリカ文学の古典と呼ばれているもので、解説を見ると学生が教科書で読まされるたぐいのものらしい。

日本でいうと井伏鱒二の山椒魚とか、いや、もっと大人向けだから川端康成の雪国とか、そういう感じか。

もうすっかり内容などは忘却の彼方だが。

しかし、文学者の方々はどうやって以前読んだ本の内容を鮮やかに記憶しておくことができるのだろうか。

自分などは読んだ先から忘れていってしまうし、ひどい場合はその本を読んだかどうかすらも覚えていなかったりする。


で、緋文字。そもそも読み方も実はよくわかっていなかった。ひもじ、あるいはひもんじと読む。緋色というのはヴェルヴェットのことで、早稲田色みたいなもの(もう少し赤みが強いイメージ)。

ストーリーは至極単純。


1640年代、入植が始まったばかりのアメリカで年の離れた夫に先行してやってきた若く美しい女は数年経っても夫がやってこないうちに不貞を働き、身ごもってしまう。清教徒が背景の時代なので、この不貞ものには罰を!ということで極刑の代わりに生涯胸にAという(Adultery不貞を意味する)文字の飾りをつけ続けなければならないことになる。(物語はここからはじまる)

恥辱にまみれた人生が始まるのだが、彼女は健気に女手一つで娘を育て7年が経つ。その間、行方不明になっていた夫、不貞の相手の若い牧師、幼い娘が人間ドラマを繰り広げる、というもの。


光文社の新訳がいいからなのか、1800年代に書かれた小説であるのに、つい最近の小説のようにポップに読める。とりわけ感心したのは物語のなかにナレーションが入り込み、そこにさらに作者の独白のようなものが紛れ込むので、おとぎ話を面白いお義兄さんが話しているのを聞いているような感じなのだ。そして、シェイクスピアよりも舞台的。舞台のト書きをそのまま読んでいるような印象すらあるので、場面や台詞を非常に明快に思い浮かべながら読むことができた。



だが、何と言っても、この老人の原動力となっていたのは、本性として動物になりきれることの完成度である。そこそこの割合で知能が配合され、ごく微量の精神性が添えられていたが、やはり精神の要素には乏しかったということで、あれより少なければ四つん這いで動いてもおかしくないという、ぎりぎりの構成になっていた。思考力は皆無である。感情の深みもない。鈍感だから悩みもない。早い話が、あたりまえの本能を備えていただけであり、これに健全な肉体の必然たる陽性の気質が加勢して、心の働きと言うよりは、わずかな本能の働きで、世間の目にはたいしたものと見られる結果を残していた。

。。。

ある一面から見れば完璧である。あとはもう。どう見ても薄っぺらで、ごまかしてばかりで、つかみどころがなく、無駄に生きているとしか言えない。結局、この人には魂も心も精神もないのだと思った。さきほど言ったとおりで、本能しか持ち合わせていない。ただ、なけなしの素材とはいえ組み合わせの妙というもので、資源の払底が痛々しいと見えることはなく、私などはこういう人もいるのかと思ってつくづく感心していた。あれだけ地上のみの存在となっていたら、今後の行き先がどうなるのかわかったものではなかろう、と冗談ではなく思ったのだが、いずれは最後の息を引き取って終わるしか無い地上の存在は、まずまず恵まれたものだったと言えよう。野生の動物と似たような道徳観念で行動していながら、楽しみごとは人間なみにあって、晩年をわびしく思わずにいられるのは動物と変わらない。



上記は「税関」と題された部分からの文章。

本編への導入で、作者の独白が物語に入り込んでしまうような道筋をここできちんと作っている。

また、以下の文章は本編からの注だが、1800年代に書かれた本だというのに、意外にも非常に先鋭的なフェミニズムの視点があった。しかもめちゃくちゃに的を得ている本質的な解答だ。



いや、考えると言えば、そもそも女というものについて、どす黒い疑問がヘスターの心に何度となく浮かんでいた。どれだけ境遇に恵まれていても、女として生きることは是認できるものなのだろうか。もちろん自身のことを考えれば、とっくに答えは出ている。否としか言いようがない。あれこれ考え込もうとすれば、その間は静かになっていられて、そこまでは男でも同じだろうが、女は考えたところで悲しくなるだけだ。とんでもない大仕事に気づいてしまうのかもしれない。女が公平かつ正当な立場を得るとしたら、まず手始めに、社会の仕組みをごっそり引き倒して、建て替えねばなるまい。その次には男の本性、ないし長年の積もり積もった習癖が本性のようになったものを、根本から修復することになる。そして、いよいよ難問が全て片付いて、前提となる変革が整ったとしても、そこから成果が上がるとしたら、すでに女自身がもっと大きな変化を遂げてしまっているだろう。すなわち女の生命の本質とも言うべき霊妙なものが、とうに蒸散しているはずなのだ。



何と示唆的な思考のことか!

200年経って、今の世の中で女性はどう生きているのだろうか。

おそらく、この大仕事をまだまだ続けているのだろう。

自分がいま気になっていることは、”すでに女自身がもっと大きな変化を遂げてしまっているだろう。すなわり女の生命の本質とも言うべき霊妙なものが、とうに蒸散しているはずなのだ。”というのがいつになるのか、そしてどのような変化を遂げるのか。女の生命の本質というものは子供を産むことだろうが、それが蒸散するというのは試験管ベイビーが主流になって、、、というと次のネタの素晴らしき世界へとつながっていく。





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