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ヒトの進化と退化

Lyは暇なときは常にFacebookやTiktokを見ている。これは彼女に限らず、ベトナムに来てから気付いたことだが多くの人がそうだ。事務所の若者たちも5秒でも時間ができると携帯でショート動画を食い入るようにして見ている。仕事中でも、打ち合わせ中でも移動中でも全くリテラシーがない、というかすべてが連続しているから彼らにとっては自然なのだろうが。

休みの日は何をしているか、と聞かれてちゃんと答えることができる人が少ない。彼らは休みの日は日がな携帯を見ているから。では、これは若者だけの問題なのかというとそうでもない。床屋にせよ市場にせよ、タクシーにせよ、外で見る人達の多くが同じ習性を持つ。若者に限らず、スマートフォンを持っていればみな同じだ。

これはベトナムに限らず、日本でも、他の世界の国々でも概ね同じなのだろう。私はこれに対して大いに反対である。

なぜなら、携帯を見て過ごす時間ほど非生産的なことはないからだ。

休みの日に仕事で疲れ果てた脳みそがもう何もしたくないと言っているときに、ぼーっとくだらないテレビとかYoutubeとかを見続けてしまうことは自分にもあるので、それは許せる。だが、それは一月に一回あるかないかくらいの話であって、毎日そのような状況が続いている人には何も期待できない。


連休中に彼女の実家に帰ってダラダラと過ごしていたときにわかったことがある。

彼らには好きなこととか、やりたいこととか、今という瞬間が人生においてどのような意味を持っているかとか、自分の人生の目的とか、目標とか、そういうことがまったくもって欠如しているのだ。

受験生が勉強をしなければならないのに携帯を見てしまうというのとは異なる話なのだ。

やることがないから携帯を見る。

時間が来たから飯を作って食べる。夜になったから寝て朝になったから起きる。

非常に動物的な態度なのだ。


大人になって働き始めると、目標とか意味とか展望とかそういうものが見えにくくなる。仕事でこんなことをしたいという目標がなくても、幸せな家庭を築きたいとか、大きな家に住みたいとか、車を買いたいとか欲求なり目標はあるはずだが、そうしたものも普段から意識していないといつの間にか忘れてしまったりする。

そうやって、動物的な態度の日常を繰り返しているうちに、なぜ家族が大切なのか、家族で集まって何がいいのか、そういうことも忘れてしまって、ただ習慣的に休みになると田舎に帰り、帰ってもひたすら携帯を見続けて、飯を食い、寝て、の繰り返し。なんの発展も成長もない。あらゆる事象は外部の環境任せ、それが現代人だ。


かなり批判的に書いているが、これは自分の正直な考えである。

能動的であるためには、かなりのエネルギーが必要だ。身体的にも精神的にも。そのエネルギーを一切使わないようになったのが、超受動的現代人だ。

日常のあらゆる選択、動作、態度は受動的であるのは当然として、携帯を見るという純粋な受動的行動を繰り返すことで、受動的な態度の純度がどんどん高まっていく。人はそれを怠惰と呼ぶのかもしれないが、これは携帯による洗脳の被害とも言えるので、簡単に怠惰と切り捨てることはしたくない。



さて、こんなことになってしまった原因はどこにあるのか?

やはり、携帯による受動的行動の促進が一気に進んだことが背景にあるだろう。

しかし、それ以前に教育が問題だ。

親の教育然り、社会の教育然り、学校の教育然り、子どもたちは環境によって育っていく。その環境が良くないたゆえに全体の環境が更に悪くなり、超受動的社会が出来上がってしまった。

私はこれを変えたい。

少なくとも自分の周りからでも変えたい。

ベトナムでバスに乗ると、高齢者が乗ってきた瞬間に(本当に文字通り、瞬間に)若者が立ち上がり、席を譲る。日本人からすると、こんなに素晴らしい若者の姿を見ると感動してしまうのだが、これは教育の賜物だ。

同じように受動的態度の撲滅を教育によって実現できると考えている。



翻って、コンピューターの素晴らしいところは、生まれた瞬間からそれまでの先人たちの経験と記憶が備わっていることだ。人間はひたすら同じことを繰り返してきた。一級建築士の試験だってそうだ。今までに多くの先人達が勉強し、忘れ、また勉強し、試験に受かったり落ちたりしてきた。コンピューターなら生まれた瞬間から一級建築士だ。

言語もそう、あるきかたもそう、研究もそう、デザインもそう、教育もそうだ。

人間の非効率には呆れるばかりだ。


本気で、脳みそにコンピューターを入れられたら、と思っている。




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