「辛くなかった春はなかったんだね」
最近こんなことを言われて、ずっと頭のなかでゆれている。
実際は花粉症の症状に対しての発言だったのだが、非常に示唆的というか含意的だなあと思っている。
梅という木はなんとも魅力的で中学生くらいから好きだ。
わけの分からない枝ぶりの上に狂気的な色の小さな花々が咲き誇る様子はいかにも詩的な妄想を膨らまさせる。
桜の森の満開の下という本をテーマに小論文みたいなものを書く試験が高校の時にあって、なかなかうまくかけたと思っていたら75点くらいで、同じクラスには100点をとったやつがいた。彼は物書きになった。
僕はいつまでも子供で、まだまだ子供であろうと思っている。
だから、さまざまなものごとの清算、そしてはじまり、のような事実に直面するとすぐに弱ってしまうのだ。
いつか友人が、大人になるとは選択をすることだ、と言っていた。
この言葉を聞いた時にはある種の戦慄すら走った。
曖昧で方向性すら定まらない浮遊感をこそ愛する僕の痛いところを突かれた瞬間だった。
そんなことだからコミュニケーションというものが不得手なんだろう。
でも選択や決定を避けていては何事も進まない(=子供のまま)であろうから、これから少しずつ意識を変えていこう。