行為の本質
行為の本質とかいうと、なんだか随分難しいことを言っているようだが、今日思いついたことの備忘録として記しておきたい。
昼下がりの公園、友人との楽しい時間を写真に写す人がいた。
行為や時間を書き写す媒体や技術が異なれど、こんな風景は有史以来極めて普通のことだろう。
が、しかしここで僕は気が付いた。写真を撮っている(入念に撮り直しをしている)彼の表情がまったくもって何の感情をも有していないことを。
その後Facebookに誰々とどこどこでなになにしたぁ的なことを書いて喜んでいる彼の姿はここからは全く想像できなかった。
というより、そんな写真をとっている彼の表情をこそ彼に見せつけてやりたかった。
これもまた、だからなんだ、というはなしになるが。
最近のスマホには表裏にカメラがついているので、その両方が同時にシャッターを切ることが出来れば、なかなか面白いのになあ、と。
そういう機能があることがわかっていたらそれはセルフィーと変わらなくなるが、ドッキリ的に仕込まれていて、一ヶ月後に自分が撮った写真と、その写真を撮ったときの表情が並列されて展示されていたらそれだけで批評性のある展示物になりそうだ。
とはいえ、セルフィーの進化版としてそういった写真の取り方は今後大いに発展の余地は残していよう。
セルフィーは自分のことを写すことが直近の目的で、(一般的に)本来の射程はそれを介してどのように社会とコミュニケーションをとるか、ということだと思っている。必ずしも対象が社会ではなく、未来の自分でもあるだろうが、それは現在の自分とは異なる−他人−ということで一応社会との対話と強引に言えよう。
話題を写真に置いてみよう。
セルフィーでは、「写真を撮っている自分」を撮っているわけだから、まさに自身の行為が具現化、具体化されている。主体のための主体による行為、と言えよう。
一方で友達との楽しいひとときを写す行為は客体のための主体を欠いた行為、になろう。
んん。何が言いたいのかはわからなくなってきた。
とまれ、そういう行為をする人はそれに見合った感情とか表情を有していて欲しいものだ。