オシャレなワタシ
オシャレってほんと、嫌い。
これはもう説明のしようがない。
あーオシャレだな−、いいなあと思うことも当然ながらある、よくある。
というかまちに出るとその連続である。
が、改まってそのオシャレという現象を考え始めると虫唾が走る。
カタチのない群衆が自分たちの存在意義を確認しあうため、
共通の認識をつくりだすのだ。
先日、都内で蛍をみた。
喧騒の中にあってその場だけは静寂に研ぎ澄まされ、
その擬似的な自然の中を舞うホタルのエフェメラルさ、日本的感覚に僕は涙しかけた。
あれはまるで生の営みの極限だった。
と、いうのは嘘でもないが、これはほとんど、蛍を見た時にいっておくべき発言(ある程度文化レベルがある人ぶってる人として)であって、まったくのでっち上げなのである。
オシャレ、というのはこのでっち上げと同じ機構を持っていると思う。
こうするべき大きな流れがあり、その中でより多数の同意を得たものが正しくなり、事実に成り、常識となる。
ここまで大仰に書くと話題がぶれていきそうだが、そんなものだろう。
どういうポーズをとるか、どういうポーズによってどうやって他人に認められようか、ということしか考えられないことは非常に貧しい。
感情や表現は本来そんな貧しいところから生まれてくるものではないだろう。
勿論、編集的立場から生まれてくるものもあるが。
後者の場合が演者、前者が純粋者であり両者のミゾは徹底的に埋められない。
自分の世界を持っている、みたいな話はここに帰着する。
だが、普通に考えて、自分の世界を持っていて、自分の表現をなりふり構わず発信していけるのは、白痴か狂人しかいない。
そんなことは誰しも分かっている。
だが、ぼくはこうやって整理していかないとものごとがよくわからない。
理解するのに時間がかかる。
まったくもってバカだなあ。