クラウド化する脳
タクシードライバーを実に7年ぶりくらいに見た。
バッファロー66'という僕の映画史上に燦然と輝く傑作との類似性を見出したり、スコセッシのキレキレっぷりを改めて認識したり、頭の側面を刈り続けるぼくの様式の原点を再確認したりと、色々と現在の自分につながる要素を沢山見つけた。
それにしても、素晴らしい映画であった。
さて、前述の思い出話とか玄人ぶった固有名詞やら専門的な固有名詞を使ったコミュニケーションに対してノーと言いたい、ということをここで書こうと思っている。
固有名詞が抜け落ちるとそれは名前が全然思い出せなくて
あーあれあれ、あの人だよ、あのーそのー、ほら、あの映画に出てた、あの、時代劇で悪党を成敗するあの映画の主人公の嫁の、あのひとがね、えっと、なんの話だったんだっけかねえ
というジジババの会話になってしまうのだが、固有名詞を欠くことで実は本質的なコミュニケーションが出来るのではないかと思う。
母国語でコミュニケーションをしているといつの間にか難しい言葉や専門用語を使って何の中身もない話をさも重要そうに話すことが出来てしまう。
時々外国語で自分の考えていることを伝えようとすると内容が非常に研ぎ澄まされる。
そこで、クラウド化する脳だ。
要はテキトーにググれば大抵のことはわかってしまう。
そういう環境に慣れてくると自分の脳みそ(ハードディスク)の記憶容量はどんどん減っていく。
その分アプリケーションは増え、様々なことができるようになる。
そして必要な記憶(データ)はインターネット(クラウド)から引き出す。
だから、ますます我々の脳みそに事物の具体性とか固有名詞は必要でなく、それらに対しての感情や抽象的なイメージだけを記憶しておけばいいのだ。
そうして記憶の捏造や抽象的な記憶の再編集が行われていくのだ。
ドキドキする。
とはいえ、この記憶の答え合わせのためにクラウドを頻繁に利用してしまうのはもったいない。
矛盾だらけだ。トラヴィスのように。