蓄積しないという蓄積

時として記憶が蘇る、というか泥の中に埋まっていた石コロをすくい上げてしまうことがある。

それは思いがけない偶然が重なって体験というものが本当に身体の中に地層のように重なっていることを意識せざるを得ない瞬間で、記憶とか思い出にすらなってないものたち、、、というよりも全ての体験が自分の身体に録画されているのだなと気付く。

すごいな、身体、みたいな。

そこには固有名詞とかは抜け落ちてしまっている、というか解像度の問題か、というか脳みそと身体の記憶の違いのようなものか。

身体の経験なのだから、それほど具体的なものなどないはずだけれども、それを説明可能なものにするには脳みその記憶と一致させないといけない(経験という抽象的な記憶を共有可能な固有名詞を使って具体化すること)。でもその作業はそう簡単なことではないしやりたくもないからいつもこんな抽象的な記述方法になっている。

好きなカクテルは○○バーのマルガリータです。

みたいなことを言えるのはカッコいいけれど、そのためにはマルガリータというものを軸にして人生が回転しなければいけない。ひとつの軸によって深い穴を掘っていく(あるいは積み上げていく)作業。それはまさに蓄積であるが、無目的的に散漫な興味であらゆるものを経験していくことによっても蓄積しない蓄積というものが出来るのだということが正当化出来るのではないか。

無目的に生きていく時、楽しいことがある。

旅行に行く時には無目的に街を彷徨います、と言うとわかりやすい例かと思うが、

ではなぜその街を選択して旅行に行ったのか、そもそもなぜ旅行に行ったのか、という疑問が生じる。つまりは目的の解像度の問題か。

では、目的はどのようにつくられるか。

メディアによって不特定多数の人間に発信される限られた情報などをもとに目的地を決める。

すでにある知識を現実の体験として行う(トレースする)ことが目的であるとすると、それはずいぶん低い天井を設定してしまっていると思う。更にいうと、多くの人が”現実の体験”をする以前に写真で撮り、それをSNSにあげることが目的化していることがあるように思える。その場合、目的は他人のためのスタンプラリーに過ぎないのではないだろうか。

情熱よ、どこに行った?

ではなく、

情熱よ、どこにいる?

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