スプリングシンドロームⅡアンコンディショナルラブ
以前スプリングシンドロームについて書いたが、ここのところ新たな症状がでてきたので書いてみたい。
とは言え、特に大したことではない。
腰の方からあまり力が入らず、寝ても寝ても眠い。全般的になににもやる気が出ず、すぐにマイナス思考になる。なにごとも中途半端でだらしがない。
といったところだろうか。
この全ての原因はおそらく花粉にあるだろう。僕は薬を飲まないので副作用とかではなく、花粉の症状として上記のようなものがあるのだと思う。なぜなら少し前までは花粉で辛くて辛くて鼻水や涙が止まらなかったが、ここのところ周りの人がジュルジュルいっているなか僕は目立った表面的な症状はないもののこのだるーい感じがつづいているからだ。きっとそういうものなのだろう。
昔から春は好きでなかった。
出会いと別れとか、ほんと勘弁してくれよという具合に。
それにたいていそういう時は良いことがない。
この空気の生ぬるさも気に入らないし、朗らかな陽気とかも気に入らない。
本当は桜の森の満開の下、のようなある種不気味な季節であるはずなのに、それがなんとも上手に脚色されてハッピーな季節として定着していることが嫌だ。
不満ばかりだ。
こんなように、気難しい自分の一面を治そうとか、そうでもしないとこの先マズイのでないかとか色々考えたわけだが、実は、自分がいる場所のせいに出来るのでないか、と最近気付かされている。
たとえば、僕の生のエネルギー源というかモチベーションは愛と怒りだ。しかし日本ではこの2つは特に隠蔽され、押し殺されている。二人の人間の間でかわされる場合もそうだ。
なぜそうなるのか、わからない。
僕の愛はアンコンディショナルラブ、無条件の愛だ。
それをただ受け取ってくれるだけで良い。感じてくれるだけで良い。この愛に触れてくれるだけで良い。
だが、現実はそうもいかず、常に愛の形というものは社会や、意外なことに当事者間によって歪められている。こうなると話はややこしくなる。この愛をどうやって見つけることが出来るのか、わからない。それが上手な人がモテる人、ということなのか。
とはいえ、僕は神様やキリストではないので無条件の愛にも限りがある。泉のように永遠にトクトクと吹き出てきてくれればいいものだが、そうもいかない。アンコンディショナルラブと言っておきながら結局その見返りを求めてしまうのは人間の性で、しかたがないものだと思うのだが、この愛の行方はどこへゆくのか、わからない。湧き出てきた愛はいつのまにか葬り去られ、雲散霧消する。その虚しさには耐え難いものがある。本当は簡単なはずなのに、いつのまにか僕たちは仮面の皮を厚くしてきてしまったようだ。
それは自分を守るためなのかもしれないが、そんなつまらないことはやめよう。少なくとも僕はそうありたい。