失われた時を求めて、Maison-T
タイミングとは不思議なもので、悲しいと思っていた時期は振り返ってみると現在あるいは未来への確かな軌跡を残しているのかもしれない。それでも、宙に浮いたような気分と感情は決して変わることはない。
この時期はいつになったら区切りがつくのかは全くもってわからないが、とにかく息を吸って吐くことは続けていかないといけないだろう。
自身で設計・監理をした住宅が最近竣工した。
自分の両親のための家なので今はその家に住んでいる。
自分で設計した建物の中で生活を行うということは、なんというか自作自演というか、トゥルーマン・ショーのような、そんな感覚がある。とはいえ、実際的な生活と建築空間(既に存在するものとして/設計するものとして)についての関係性を身をもって学ぶことができるようだ。
この建築が作品と呼べるものになっているのかがまずわからない。
ディテールがあまりないことは明らかだが、全体の構成や一部の空間はなかなか良くできたものだと思っている。オープンハウスの際に友達が言ってくれたことや、自分でも気づかずに設計していたことが文章化、というか表面化してきたことは良いことだろう。
さて、ここのところ大学二年生くらいの時から読んでみたいと思っていたプルーストの大著「失われた時を求めて」を読んでいる。
何故この本を読んでみたいと思っていたのかを思い出してみると、当時受けていた授業で紹介された映画(タイムマシン)の中のAIがちらっと喋っていたからだったような気がする。尤もこの映画は全編通しで見たこともないのだが。そのタイトルのキャッチーさにはずっと惹かれていたのだと思う。
そしてもう一つの疑問は、何故今になって読み始めたということだが、これはほんの二ヶ月前くらいの話なのだが皆目見当がつかない。そんなプロセスの何が良かったのかというと、この本に関して知っていることはタイトルと著者名だけであったということだ。内容に関しては大学二年生の時から本を開けて頁を繰るまで全く知らなかった。
そして今、人生最高の読書時間を過ごしていると言っても過言ではない。
これだけのものに触れていると自分の作り出すあらゆるものの価値というか真実味というかそういうものが飛び去っていくような気がする。だけれども、自分という存在についての思考を深める際に発生する感情についての好奇心や自信のようなものは深まるばかりだ。