赤と黒
インドの街の河岸で黄昏て葉っぱを吸っていた老人が涙を流している理由は失った妻を思い出していたからだ、なんて思ったのはなぜだったのだろうか。もう7年位前の1風景なのだが、急に思い出した。
子どもの時、小学生の時は学校からの帰り道で手の届く範囲は全て触っていた。ものの連続性と断続について考えるきっかけとなったかもしれない。赤ちゃんの指の動きを見ていると何かわからないものを捉えようとしていることにほかならないと思う。それはコンテンポラリーダンスで目指しているものとも同じだろう。そんな当然のようなことを考えたり感じるきっかけがまちの中にはたくさんあって、その感受性を時々は発揮できるようにしなければならない、なんて反省をしてみたが、子供の時の触覚的感性は今では完全に「見る」という行為に置き換わってしまったように思う。
これは身体の経験から頭で理解しようとすることへシフトしていっているということで、頭でっかちに(赤ちゃんのほうが物理的には頭でっかちではあるが)なってしまっているのだと思う。
そんな頭でっかちの私たちは愛について文学的に語ろうとしたがる。
実際に愛について考える時-考え始めている時点で頭でっかちなのだが-自分の周囲を極めて文学的に作りかえ、ドラマチックな夢想を抱く。が、しかし愛が始まる瞬間はそんな高尚なものでもなんでもないのだと思う。
極めてつまらないというか大した理由もなく愛は始まるのだろう。
でも愛について考えることはとても幸せなことだ。