1984年と廃車の夢と石山雄三

23.04.2018

姉ともう一人(多分姉の旦那)と母の車でドライブをしているといつの間にか道がマリオカートの様になっている。あまりに狭くて岩壁が迫ってくるものだから車が横転というか、たけのこ山のようなところに斜めにぶつかってしまった。エンジンを踏み込んでもなかなか動かないので思いっきりふかして次の山まで飛んでみた。

スピードがついてジャンプしたのでなかなかの出来で4回転位横回りしたのだが次の山に衝突して車はぺしゃんこになってしまった。

あーあ、又廃車にしちゃったよ。

 

駐車場を歩いていると屈強な外人の友人たちが洗車をしている。話しかけて楽しく会話をしたらもうひとり女の子もいた。それから建物の中に入ってドアを閉めようと思って玄関を振り返ると閉まりかけていたドアの隙間に手を挟み込もうとしているのが見えてもう一度閉めかかっていたドアを開け放つと屈強な友達が怯えた顔をしている。その後ろには知り合いの幼稚園の園長先生(中年女性)がピストルをもって立っていた。屈強な友達は申し訳無さそうな顔をして室内に入り、集会所に向かう。建物の中にいた人たちも磁石に引き寄せられるようにその部屋に入っていった。部屋に入ると園長先生が喚き散らしながら我々を整列させる。右端の方にいた別の友人が目配せをしてくる。タイミングを見計らってピストルを奪え、と言っているようだ。と、その時自分の体が反射的に動いて園長のピストルを奪っていた。それからは大泣きしながら自分の夢を語る園長の話を聞いていた。というのも自分の園が気に入らず、大手のハウスメーカーで新しい園舎の設計は済んでいるのだが、こちらの園(この建物は別の幼稚園だった)にそれを建てたいというのだ。

 

その幼稚園でお話をしていると、とある賞の資料を届けに来たというニヤニヤした顔の男がやってくる。さっさと資料を渡して帰ってくれればいいのだが、実は、とか言ってもったいぶりながら、資料(分厚い論文のようなもので、それはそこの理事長が書いた論文だった)のページを繰ると授賞予定と書かれた紙が挟まっていた。自分もその賞に応募していたので資料(自分が送った写真や図面集)を渡されたが、そのなかには授賞予定と書かれた紙はどこにも無かった。ちょっとムッとした気分でいると、他にも授賞予定の人がその大きな部屋の中にはいた。自分は個人的にその男を知っていて、何の取り柄もない作品を作る男だったので、なんだかおかしなことになっているな、なんて思って更にイライラしながら資料を届けに来たニヤニヤ男を睨みつけた。そうしたら、ニヤニヤ男は更にその油っぽいザマス顔をニヤつかせ、なんでこんなしょぼいのがね〜、と言って去っていった。そもそも、思い返してみると理事長が書いた論文の応募は自分が勝手に行ったものだったことを思い出し、授賞予定であることの報告も兼ねて理事長に会いに行った。満足したような表情をした後に、論文は自分ひとりだけで作ったものではないので関係するなんとか先生となんとか先生にも許可を貰わなければいけないなぁなんて及び腰になっていた。そうこうしていると何人かのスーツをきた男たちが入ってきた。かれらはこの理事長を詐欺容疑で逮捕しに来たのだった。

 

ニースの旧市街のような街角を歩いているとラジオからかかってくる曲はどこで聞いても同じなものだから、隣り合った三軒のホテルの経営者たちが自分たちの建物でかかっているラジオの曲に合わせてハミングをしながら通りに出てくる。随分三人共ごきげんなようで、景気がいい、儲かっている、今夜は宿泊料金を値上げだ、なんて話し合っている。そうするとそこを通りかかったプロレタリアートの男がなんでそんなことを言うのか、やめてくれと言って3人と小突きあいを始める。当然3人の方に分があるので男は逃げるように職場であるバックヤードの蒸気がむんむんとする洗濯場のような場所に戻っていった。3人は彼を追いかけた。ほんの数秒の差だったので追いつけないはずはないと高をくくっていたが、彼はいなかった。蒸発させられたのだ。自分は彼らから離れ、隣の建物の階段を上っていた。この建物には中身が無いのだろう。外観の大きさと階段の大きさが殆ど同じなのだ。だがその建築は深い濃い赤色をしており、幾何学的な眺めが空間を繋いだり仕切ったりして昼間だというのに光が入ってくる量はそんなに多くない。吹き抜けの高い部分はかなり暗く、ゴシック教会の天井を思わせた。

しかし、こんな建築、しかも内観をよく考えられたものだ。自分を褒めてやりたい。

 

ここまでは一昨日見た夢の話。

ここからは昨日見たダンスの話。

 

石山雄三の0dbという作品を見た。彼の代表作品であるQWERTYという作品を以前見たことがあって、その洗練された美意識と切れ味のある演出には衝撃を受け、時々頭の中で再生していた。

今回の作品は観客とダンサー全員がヘッドホンをつけているという状況で上演される。それ以外の演出や振り付け、ライティングなどは前に見たものとあまり違いがない、というかあまり面白みを見つけることが出来なかった。が、しかしこの作品のすごいところはそこにはないのだ。入場整理券をもらう時にA席かB席かを選ばなければならず、それぞれで流れる曲が異なるというのだ。この瞬間から作品は始まっていた。果たして自分は隣で息をして同じ空気を吸っている人が同じ見た目のヘッドホンから自分と同じ音を聞いているかどうか全くわからなくなってしまうのである。それはイヤホンをつけたダンサーにも当てはまる。その疑惑を拡大していくと、共有の経験、あるいは体験とは何か、世界は一人ひとりが各々のフィルターを通して見ているがゆえに他人のことどころか他人と同じものを見ているはずなのにそれは同じものではないということが起こり得て、それはつまり世界の崩壊である。共通の認識と言うか曖昧な共有関係を持っていると全世界の人々が信じることによってこの世界は成立しているのだ、ということまで拡大して考えたのであった。

 

 

 

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