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去勢される車

自動運転機能が装備された車を運転した。

そこら中にセンサーがついていて口うるさく指示されることには辟易するが、それよりも車を運転するという喜びや楽しさのようなものが削ぎ落とされて平均化していくことに最も違和感を覚えた。

何100kgもある鉄の塊を走らせるという責任や自己の身体の拡張のような能動的な意識はなくなり、機械に制御され、運転席に座っているだけという受動的な気分だけが高まるのである。

1984年の後に読んだ服従という本ではイスラム教という大きな流れに身を任せる受動的な人間になることがある種の快楽となることが描かれていたがそれに似たようなものを感じた。

この本はとてもおもしろかったのだが、フランスという国において女性がすんなりとムスリム化を受け入れるのかどうか甚だ疑問に思った。フェミニズムまでいかなくとも、女性の視点がすっぽりと抜け落ちているように感じた。

最近、大駱駝艦の公演を壺中天でみた。

続けざまにいろいろなダンス公演をみていたが、やはりここは格別だった。

あの狭い箱のなかで繰り広げられる世界は興奮なしには語れない。

そして上演後に白塗りの浴衣姿の演者が路上に出てきてタバコをすぱすぱ吸っている夜の景色など、異界としか思えない。

また見に行きたい。

株式会社Archidanceを設立した。

君の名前で僕を呼んでという映画を見た。

おゲイの映画なのだが、平日の昼間に映画館に行ったら女ばかりで、みなさん揃ってシクシクやっているものだから笑ってしまった。とはいえ、おゲイの話を通して普遍的な初恋、純愛を描いているので誰しもが共感して自己投影出来るのだろう。

それでも、タイトルにもなっている君の名前で僕を呼んでという考え方はかなり際どいのではないか。

そもそも異性ではなく同性を求めている人たちという時点で、「相手」の中に「自分」を見出しやすい構造があり、それを拡大解釈すると「相手」という存在する肉体を通して「自分」を愛しているとも考えられる。そんな人達が、更には相手のことを自分の名前で呼んでセックスをしているとはなんて異常な話だろう。

そんなことを考えて判然としない気持ちでいたのだが、以前自分自身も「愛しているのは自分自身」と言われたことを思い出した。なんてひどいことを言うのだと落ち込んだものだが、確かにそう思わせてしまうなにか、あるいは真実があるのかもしれない。

だけど、それはどうにか変えていきたい。

永遠に続く日常をどう乗り越えるか。

ありのまま受け入れて川の流れのように日常を永遠に続けていける人と、その永遠性に気付き気が狂ってしまう人とがいるというようなことが動物化するポストモダンに書いてあった。

その一文を読んで以来、日常が永遠に続く日常に変わってしまった。

だが、そんな時に突然、本当に唐突に現れた幸運もあったりして、まだ気は狂っていない。

楽しくやっていこう。

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