移動すること、発展すること

22.09.2019

ベトナムにいると、よく日本人が

 

「昔の日本を見ているようだ」

「大きな成長が期待できる」

「可能性を感じる」

 

と言っているのを耳にする。

こっちに来る前に新聞でそのような記事が書かれているのを読んだときはそこにデータ的な裏付けがあって論理的に説明されているので、そうなんだろうなと思っていた。

だが、現地に住んでいる或いは仕事をしている日本人の口からその言葉を聞くと、果たして一体どこに、具体的な何をみてそう考えているのか聞いてみたくなる。

特に自分は4,50年前の日本の姿を知っているわけではないし、自分の小さかった頃から今に至るまでに都市や生活がドラスティックに変わったとは思えない。

もちろん人々は携帯をもってネットでなんでもできるようになったし新しいビルや道路がどんどん出来たというのはあるが、風景がガラッと変わるようなことは起きていないのではないか、と思う。

かたやハノイでもすごい勢いで新しいビルが建っているがインフラの整備はお粗末な状態である。

人々は携帯をもっとネットでなんでもできるし、Grabなどの配車、配送サービスなどは日本よりもずっと進んでいる。

 

さて、この先に彼らは何を描いて成長や可能性という言葉を使っているのだろうか。

ただ単に、ハード面のアップデートや生活水準が日本並みになっていくことを描いて「昔の日本を見ているよう」ならば、かなり想像力に欠けていると思わざるを得ない。

その人たちが思い描いているのは日本の(劣化版)コピーや新しい植民化なのではないだろうか、と感じてしまった。

 

こんな屈曲した考えを持つに至ったのは、なぜ人々は移動し、そして都市を発展させているのだろうかということを、自分自身がそのような立場に身をおいているがゆえに考えざるを得なくなったからだ。

赴任や留学などで海外に住むことになった人が

 

「日本(自国)よりここが良くない」

 

という考えをもって物事を判断していると、その人もその人が住むことになった国の人もハッピーにならないと思う。

もちろん、全然行きたくもない場所に飛ばされて文句を言うのは仕方が無いことだが。

場所が違えば人も文化も何もかも違って当然なのだ。

その違いを自国と比較して悪く言うのはあまり良いアティチュードでは無いだろう。

その逆も然りで、自国のことを悪くいうのもいただけないアティチュードだと感じる。

今までの経験から比較をしないと、何にも評価を下すことはできないのだが、

 

「自国とここが違って面白い」

 

という様に自国との差異を肯定的に捉えて、その違いを楽しめれば双方ハッピーになれるだろう。

かくいう自分も「日本と比べて空気が汚いことが良くない」という強い否定的な意見を持っている。

では何をするか。

インフラの整備が進むことで公共交通機関を利用する人が増えて自家用車、バイクの使用が減り、空気がきれいになっていく、というビジョンは描けるがそれは偉い人がやることだし、いまのところ排気ガスをクリーンにするアイデアで起業して革命を起こす気もない。だからといってこの問題を見過ごす、あるいはそこに加担するのも嫌だ。

だから自分は自転車を使っている。

毎日汗だくになるが、いい運動だし、排気ガスを自分は出していないのだ。

もともとこの街に住んでいたわけではない新参者の自分が来て空気の汚染に文句を言いながら自分もその汚染に加担をしているのなら、それは無責任だし現地で昔から住んでいる人たちにとっては迷惑そのものだ。

 

とはいえちょっとした旅行用などにバイクがほしいな、なんて思い始めている。

その時はイノベーションを起こして大義名分をつくってやろう!

 

 

 

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