信じること

先日29歳になった。
誕生日を祝ってくれた友達と湖畔でずいぶんと真面目な話をしていたときのことである。
自分はこれまで29年間生きてきて何かを信じたことがないと気づいたのだった。
ベトナムの歴史やら国家間の対立、宗教のあり方などなんでそんな話をわざわざするのだ、といわれそうだが、そんなことを話していた。
21世紀になって先進国の人々は特に自立して、豊かな暮らしを送っているのになぜ未だに宗教にすがる、あるいは必用とするのか、宗教なくして育ってきた自分には理解が出来ない、という発言をした。
信じることやすがることは依存的で、深入りしそうだし、現実に何かを信じることで得られるメリットがわからないので今まで何かを信じることをしなかった。
もしかしたらこれは日本の多くの若者が感じていることかもしれないのではないだろうか。
それは宗教や信条といった抽象的で難しいことに限らず、人間関係も文化も歴史も何も信じてこなかった。
かといってそれが故に孤独で真っ暗な人生を送ってきたわけではない。
むしろ花色と呼べる、良き人生を送ってきた。
が、しかし何をも信じずにこれほど長い期間、しかもほとんど無意識に生きてきたということに驚き、そしてこのままで良いのかと自問した。
以前フランスに住んでいた時に、身の回りのものや食べ物に依存していると生活環境が変わった時に対応が出来ず弱い生物になってしまうと気づいた。
当時から自分はあまりこだわりはなく、「無人島に持っていくとしたら」の質問ではないが、「これがないと生きていけない」「どこで生活するにしてもこれだけはあってほしい」というものは何かと自分で考えていた。
牛乳とお酒がないと生きていくうえで楽しみが減るな、と考えた。どちらもどんな土地に行ってもだいたいは手に入るだろうものなので、これを良しとした。
今となっては牛乳も必需品ではなくなった気がする。
お酒はやっぱり必用だ。
でもなかったらなかったでなんとかなりそうな気がしている。
そもそもこの課題の原点には、強い人間、強い生物になりたいと子供の頃から考えていたことがある。
暑い国に行った時に困るといけないから、という理由で(多少成長してからは地球温暖化で日本が暑くなった時に自分は生き残れるように、というもっともらしい理由付けをしていた)エアコンを使わない生活を続けていた。ベトナムに移った今でも自分の部屋では一切エアコンは使わない。
強い生物になりたいというバカっぽい、ターザン的思想でエアコンを使わなかったので、逆に冷房がガンガンに効いている場所ではかなり弱体化することになったのも事実である。
原始的な強さを現代的な環境のなかでも発揮できなければいけないのである。
こうして何かに依存をしないように心がけながら生きてきた。
結果として、どこに行ってもなにかに困ることは一般的な人に比べてかなり少ないだろうし、簡単に現地に溶け込むことができるようだ。
それはベトナムに来て出来た友達によく指摘される。もしかしたら顔がベトナム人ぽいからだけかもしれないが。
インド人の友人曰く、何も信じないという事を信じるという新しい信じ方(宗教)を持っているとも言えるらしい。確かにそうだ。
とはいえ、何にも依存しない、何も信じないという人生というか生き方は人間味にかけるというか、なにものにも深入りしないし、なんのこだわりもない、ということの裏返しのようで、そんなことを考えると胸が痛い。
結局この問に答えはないのだが、29歳になったのを期にこんなことを考える機会があったので、今年は信じるとは何か、これからの人生で何か信じるものがあるのか、信じることによって何か新しいパースペクティブが手に入るのか、そんなことを考えていきたい。
少なくとも人との付き合い方に関しては大きな改善点があるので、信じるという言葉をキーワードに考えながら、行動に移していこう。
感情をぶつけてもいいのだから。