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こうして温暖化も進み、世界がゴミの山になり、人の心も荒れていくのでしょう

SF小説の書き出しのようだが、これは新聞で読んだ故”中村哲医師がペシャワール会報に寄せていた最後のメッセージ”だそうだ。

その手前には

”干ばつによってアフガンの国土は破壊されつつある。なのに相変わらず拳を振り上げ、札束が舞う世界は「沙漠(さばく)以 上に危険で面妖なものに映ります」と中村さんは憂えている。”

とある。

中村さんのことは恥ずかしながら最近の訃報を読むまで存じ上げなかった。そしていまのところ彼の著作を読もうとしているわけでは無いのでこれ以上なにか知ることは無いのだろうが、冒頭の文章には心を揺さぶられた。なぜならそれは映画のスクリーンの中ではなく、現実に起こっている事実だからだ。

世界はゴミの山になりかけているし、そして人の心も荒れてきているように思える。

それを傍観することしか出来ないのか、飛び恥みたいにアクションを起こすのか。

この問題に対する面白い記事を読んだ。

クリスマスに遠隔地から集まった家族の時間で若者たちは家族の各人が集まるために使った飛行機が排出したCO2やらサンタクロースの贈り物の環境的インパクトやら、チキンを食べることの罪深さなどをけんか腰に批判して昔ながらの団欒とはいかなくなるかもしれない、ということを書いている。

少なくともこの環境破壊に対する問題意識を世界中に広げたことでこれらの運動をしている人たちは一定の成功を納めたと思う。そしてその御蔭で国や企業は改革に迫られている。

皮肉なことにこれらの運動を主催している

”若者の多くは欧米人で、裕福な家庭で育ち、十分に教育を受けており、社会正義への意識が強い。これに対し圧倒的に数が多い一般の人は、来月の給料で生活をやりくりできるか考えるのでいっぱいで、 環境問題どころではない。”

まさにそう。それはベトナムにいるとより強く感じられる。

経済的に余裕があって、高度な教育を受けてきた人達は自分以外のことに目を向けられるが、多くの人は自分のこと、自分の半径5mくらいのことにしか興味というか集中力というか関心を向けられない。

だからこそ、企業や国が率先して社会をいつの間にか変えてしまえば、多くの一般の人たちも知らず知らずのうちに環境問題を意識することなく環境に優しい生活を送るようになれるのかもしれない。

それはたとえば、いつの間にかよく行くカフェでプラスチックストローが使われなくなるようなもので、そんなことは普段意識していないかもしれないが、そのプラスチックが使われなくなったことで多少の改善にはなることだろう。

とはいえ、肉食を嫌い、酒を飲まず、タバコも吸わず、ということが社会的正義となっていくことには「個人的に」違和感を覚える。(環境のことや仕事のパフォーマンスを考えたらこれらの禁欲的な(もとから酒も飲まない、タバコも吸わない、肉は食べない人にとってはデフォルトの設定だが)姿勢が多分正義なのは頭ではわかっている)

もちろん、牛を食べることが結果的に環境破壊につながっているという話を理解できるし、ブラジル産の牛を食べないようにすることがアマゾンの森林破壊を抑制することにつながるかもしれない、という話も理解できる。それにもろもろの宗教事情も理解できる。

だが、自分とは違う考え方を持つ人達を悪と呼び、批判して、毛嫌いするのはあまりにも過剰な反応だと思うし、そのような世界はとても生きにくいと思う。

そもそもそんなことをしていると身体的にも精神的にも健康的でない。

「モノクロのシャツしか身に着けない建築家」とか「ド派手な身なりで油っぽい不動産屋」みたいな感じで「いつもイライラしているビーガンのひと」と笑われる(そんなふうにひとのことを笑うことはとても失礼だが)キャラクターというかタイポロジー(クリシェというほどの社会的合意がされているかは不明)が存在するのも確かで、それはあまり喜ばしいことではないだろう。(この考え方は快楽主義に寄りすぎているだろうか。)

酒や煙草によって誰かに迷惑をかけていたらそれはよくないことだ。

だが、人に迷惑をかけないことと、自分の快楽との天秤というのは社会生活においてここまで顕著ではないにせよ、誰しもがどんな行動を取るときにでも発生する問題だろう。

人に迷惑をあまりかけない程度で自分が楽しめる、そんな普通のことができればよいのだ。

もう少し感覚的な話をすると、世界が草食化(食べ物も人間関係も)して「古き良き男らしさ」みたいなものが抹殺されてしまうのはちょっと嫌だと感じている。

そういう時代もあったとか、今では信じられないとか言いながら、でもかっこいいよね、え〜ありえないとか言っていられればいいのだ。

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