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Curiosity killed the cat

好奇心旺盛な羊は羊飼いが面倒を見るのが大変なので真っ先に殺される。

だが、自分は好奇心を旺盛に保ち、いやむしろ増幅させていかなければならない。




今まで読んだ本の中でも極めて刺激的だった、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』の備忘録をここに残しておく。



第13章 歴史の必然と謎めいた選択


”人間は死ぬが、概念は広まる。”

”むしろ、文化は精神的な寄生体で、偶然現れ、それから感染した人全員を利用する。”

”文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る・・・ウイルスのような有機体寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと広がり、宿主に頼っていき、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。それとそっくりな形で、文化的な概念も人間の心の中に生きている。”


文化とは何なのか、ときに歴史を動かし、ときに個人の嗜好を満足させるが、ときにその文化によって多くの人が殺されたりもする。宗教も文化と考えたときに、上記の文章は非常に文化というものの特徴を非常にうまく捉えているとおもった。



第14章 無知の発見と近代科学の成立


”・・・この質問に対する科学的な答えはない。政治的、経済的、宗教的な答えがあるだけだ。今日の世界では、スラグホーン教授のほうが補助金を獲得する可能性が高い。それは、乳腺の病気の方が牛の精神活動よりも科学的に興味深いからではなく、その研究の恩恵にあずかる立場にある酪農業界のほうが、動物の権利保護の圧力団体よりも政治的影響力や経済的影響力が強いからだ。・・・だが、牛の気持ちよりも牛乳の経済的潜在価値と市民の健康を重んじる社会に住んでいる限り、スプラウト教授は、その社会の前提に訴える研究企画書を書くのが得策だろう。たとえば、「気が滅入ると乳量が減る。乳牛の精神世界を理解すれば、牛たちの気分を改善する精神的療薬を開発でき、それによって乳量を最大1割増加させられるかもしれない。牛の精神治療薬の世界市場は、年間2億5000万ドル規模になると見込まれる」というように」”

”科学は自らの優先順位を設定できない。また、自らが発見した物事をどうするかも決められない。例えば、純粋に科学的な視点にたてば、遺伝学の分野で深まる知識をどうすべきかは不明だ。”

”つまり、科学研究は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることだできる。”

”イデオロギーは研究の費用を正当化する。それと引き換えに、イデオロギーは科学研究の優先順位に影響を及ぼし、発見された物事をどうするか決める。”


この章では人間が科学的な革命を可能にしたのは、自分たちが何も知らないということを自覚したことに端を発すると書かれている。たとえば、雷が落ちるのは神様が怒っているからだ、とか農業が不作なのは生贄が足りないからだ、などという自分たちの理解を超える世界のことはすべて神様に原因を求めてきた。が、どうやらそうではないようだということを発見してから初めて科学が発展する道筋が見えてきたということは非常に示唆的だった。

上記に参照した部分では、科学者がいかにして研究資金を獲得するかというちょっと身近な話もあり、興味をひかれた。次の章につながる重要な視点だ。



第15章 科学と帝国の融合


”アメリカ大陸の発見は科学革命の基礎となる出来事だった。そのおかげでヨーロッパ人は、過去の伝統よりも現在の観察結果を重視することを学んだだけでなく、アメリカを征服したいという欲望によって猛烈な速さで新しい知識を求めざるをえなくなったからだ。彼らがその広大な新大陸を支配したいと心から思うなら、その地理、気候、植物相、動物相、言語、文化、歴史について、新しいデータを大量に集めなければならなかった。聖書や古い地理学の書物、古代からの言い伝えはほとんど役に立たなかったからだ。 これ以降、ヨーロッパでは地理学者だけでなく、他のほぼすべての分野の学者が、後から埋めるべき余白を残した地図を描き始めた。自らの理論は完全ではなく、自分たちの知らない重要なことがあると認め始めたのだ”


上記の文章と、マトリックスで登場するアーキテクトに関する一連の考察を比較すると、自分の考えるアーキテクト像は間違っていなかったのだと思える。というのは、完全なる世界を設計するのが建築家の仕事ではなく、常に自らが完全でないことを認め、他者との協働によって余白を埋めていく作業が必要であるということを理解し、実践していくことだ。



第16章 拡大するパイという資本主義のマジック


”資本主義は、経済がどう機能するのかについての理論として始まった。この理論は説明的な面と規範的な面の両方を備えていた。つまりお金の働きを説明すると同時に、利益を生産に再投資することが経済の急速な成長につながるという考えを普及させたのだ。だが資本主義は、次第にたんなる経済学説をはるかに超える存在になっていった。今や一つの倫理体型であり、どう振る舞うべきか、どう子供を教育するべきか、果てはどう考えるべきかさえ示す一連の教えまでもが、資本主義に含まれる。資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。なぜなら、正義や自由やさらには幸福まで、全てが経済成長に左右されるからだ。資本主義者に尋ねてみるといい。ジンバブエやアフガニスタンのようなところに、どうすれば正義と政治的な自由をもたらせるのか、と。おそらく、安定した民主主義の制度には経済的な豊かさと中産階級の繁栄が重要であり、そのためにはアフガニスタンの部族民に、自由企業制と倹約と自立がいかに重要かを叩き込む必要があるということを、こんこんと説かれるだろう。”

”この新しい宗教は、近代科学の発展にも決定的な影響を与えてきた。・・・逆に、科学を考慮に入れずに資本主義の歴史を理解することもできない。経済成長は永久に続くという資本主義の信念は、この宇宙に関して私達が持つほぼすべての知識と矛盾する。”

”紙幣を発行するのは政府と中央銀行だが、結局のところ、それに見合った価値を生みだすのは科学者なのだ”

”もう一つの答えは、あともう少しの辛抱だ、というものだ。楽園はすぐ目の前にある、と資本主義者は請け合う。大西洋奴隷貿易やヨーロッパ労働者階級の搾取といった過ちがあったことは事実だ。だが、私たちはそこから学んだし、パイがもう少しだけ大きくなるまで、あとしばらく待てば、みんなでより大きい分け前にありつける。成果の分配は決して公平になることはないが、老若男女全員を満足させるだけの分量は手に入る−コンゴにおいてさえも。”


自分は何も信じない、無宗教を自称してきたが、いつか友人に無宗教を信じるということで、それ自体が信仰だと言われてハッとしたことを思い出した。そしてこの本を読んで分かった。自分は資本主義を信仰しているのだと。しかし、完全な陶酔的信仰ではなく、懐疑的な見方をしながらも全体的には信じている、という感じだ。

これはLyちゃんとの出会いによって自分の考え方が明らかになったことによって理解が深まっている。

そしてこの資本主義という宗教は簡単に人を改宗させる力を持っていると思う。Lyちゃんがお兄さんに、お金はいくらあっても足りない、お金がある分だけ生活水準を上げていくから、と説明していたことを鑑みるに。



第17章 産業の推進力


”資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、2つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。”

”資本主義・消費主義の価値体系は、別の面でも革命的だ。以前の倫理体系の大半は、人々にずいぶんと厳しい条件を突きつけてきた。人々は楽園を約束されたが、それは思いやりと寛容さを養い、渇望と怒りを克服し、利己心を抑え込んだ場合に限られた。ほとんどの人にとって、これはあまりに難しすぎた。倫理の歴史は、誰も達成できない素晴らしい理想の悲しい物語だ。・・・それとは対象的に、今日ではほとんどの人が資本主義・消費主義の理想を首尾よく体現している。この新しい価値体系も楽園を約束するが、その条件は、富める者が強欲であり続け、更にお金を儲けるために時間を使い、一般大衆が自らの渇望と感情にしたい放題にさせ、ますます多くを買うことだ。これは信望者が求められたことを実際にやっている、史上最初の宗教だ。だが、引き換えに本当に楽園が手に入ると、どうして分かるのか?それは、テレビで見たからだ。”


至極当然のような原理だが、資本主義と消費主義をこのように並べて考えることをしたことがなかったので、最初に驚きを持って受け止めるものの、あまりにもストンと落ちてくる話で、これ以上語るべきことはない。



第19章 文明は人間を幸福にしたのか


”ニーチェの言葉にあるように、あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえも極めて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練に他ならない。”

”では、中世の祖先たちは、死後の世界についての集団的妄想の中に人生の意味を見出していたおかげで、幸せだったのだろうか?まさにそのとおりだ。そうした空想を打ち破るものが出ない限りは、幸せだったに違いない。これまでに分かっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生には全く何の意味もない。人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。私たちの行動は、神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いていくだろう。現時点の知見から判断すると、人間の主観性の喪失が惜しまれることはなさそうだ。したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想に過ぎない。”


ホモサピエンスの発展について、動物としてのヒトの成り立ちから時を追って現代まで時計の針を進めて考察してきたこの本が、最後に問うのは幸福についてだ。そして、我々の人生には何の意味もないとはっきりと切り捨てられてしまう。おっかなびっくりそうなんでないかと考えることをしながら否定してきたというのに、心酔してきた本にこんなにもはっきりと人生には何の意味もないと言われてしまうと流石にちょっと落ち込む。このあとにいろいろと害された気持ちをフォローするような内容が続くのだが、切れ味は驚くほど悪い。つまり、付け焼き刃であり、真実は、人生には何の意味もないということだ。



あとがき − 神になった動物


”そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。・・・私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。・・・その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでも決して満足できずにいる。”

”自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?”


この直前の章の最後、つまり本編の最後に以下の一文がある。

”私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。”

何を望みたいのか、という日本語が少々わかりにくかったので英訳してみたら、What do we want to hope for? となった。というのも、What do we want?と何が違うのかを考えてみたかったのであるが、つまるところ、何の意味もない人生(人類の長期的な営み)にどんな意味を見出したいのか?ということだろうか。このように読解すると、第19章で落ち込まされた自分も少し励まされる気がする。



最後に、訳者あとがきで取り上げられていた一文を持って締めくくろう。


”歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を広げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ”



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