『日本の建築』 隈研吾
久しぶりに、建築の本を読んだ。
近代日本建築史を現代日本建築設計をリードする隈研吾の視点で読み解くという本なので、大学で習ったような大筋の流れがあった上で、隈研吾の視点と様々なディテールの話が出てくるのでそれはそれは面白い。
最終的に自分の話にしてしまうあたりが商業的に成功している隈研吾らしいのだが、それが変にポエティックだったり内省的過ぎず、かと言って鼻につくような感じがしない、とてもすがすがしい気持ちで読み進めていくことが出来た。
この人はやはり、めちゃくちゃ頭がよいし、文章がうまい。
他の本も読みたくなったが、買わずに図書館で借りたいと思う。なぜなら少しでも隈研吾の印税収入を増やしたくないからだ笑
内容について。
ブルーノ・タウトが桂離宮を見出したところから始まる。1933年のこと。なのでこの本で語られているのはこの100年以内の話だ。タウトは、「日本建築は形態の建築ではなく、関係性の建築である」と言う。それは桂離宮が体現している、建築の形態で価値を示したり主張するのではなく、ランドスケープ・庭園との関係性によってこそ価値が高められていると発見する。
そして、有名な宮廷的桂離宮・伊勢神宮VS武家的東照宮の二項対立によって日本建築史を見る。
矮小化されたわけではないのだが、もののあわれ的繊細な前者かマッチョ的、成金的キッチュな後者かという構図はわかりやすい。これは西洋におけるクラシシズムVSゴシック、クラシックVSモダンなどの二項対立と同じである。
後に、桂離宮は石元泰博の写真集KATSURAとして日本に300年前からあったモダニズム的建築美として評価されることになる。これは、関係性を評価したタウトとは逆行する手法だが、日本のサヴォア邸(1931年竣工)としてモダニズム運動を前進させることになった。実際には勾配屋根が載っているところをフレームアウトさせて白と黒、水平と垂直の要素で組み立てられたかのような表現として情報操作をしている。(確かに前ボスが実際に桂を見たときにがっかりしたと言っていたというのを思い出した。)しかも、障子が開け放たれているべきところが石元の写真ではすべて閉ざされているなど。
この議論は建築とイメージ、プロパガンダについて考える上で意識的であらねばならないものだ。
時と場所は移り、1893年のシカゴ万博。平等院を模した鳳凰堂を若き日のフランクロイドライトが見た。そこで彼が発見したのは深い庇だった。その真骨頂はロビー邸の深い庇に現れている。(ということはジャン・ヌーヴェルのルツェルンも日本建築が源流ということか!?)その後、西洋ではモダニズム建築が工業化と相俟って誕生し、一気に流行する。
一方で、日本では6人のキーキャラクターがそれぞれ異なる考えと手法によって独自の発展を進めていく。
#藤井厚二
聴竹居(1928)はタウト以前だが、当時既に超売れっ子になっていたコルビジェに対して真っ向から反撃の狼煙を上げる。
彼のキーワードはエンジニアリング。環境と構造を木造による緻密で繊細な次元で実現させて、ドミノシステム的なモダニズム建築と正反対の道を進む。
(デザインだけではなく、現代建築で最も重要視されるのがこの環境の部分。そして機械に頼っていた設備設計から、パッシブデザインへの潮流の源流とも言えるだろう)
#堀口捨己
紫煙荘(1926)でムクリのついた茅葺き屋根など、自然と接続した「弱い」マテリアルや民芸品などのモノの価値を見出した。それはガラスのカーテンウォールファサードに代表されるモダニズムとは相対するものだった。
(モダニズムがもたらしたグローバリズムの後に生きる我々が模索している地域性やマテリアルの話に直結する)
#吉田五十八
キーワードは「数寄屋の近代化」。茶室に代表される数寄屋形式のなかに日本建築の価値を見出した。そしてそれを近代化させるデザインとした。数寄屋自体は清貧な、庶民のもののはずだったが、茶道によってそれが複雑化され、貴族趣味的なものになってしまっていたので、それを明るく、開放させた。具体的には大壁を使って柱の垂直線を消し去り(モダニズム的アプローチ)、引き戸によって開放性と明るさを獲得させる。
(設計する際の実際的な意匠のテクニックなのだが、このような歴史的な意味まで鑑みていたわけではなかった自分が恥ずかしくなる。また、半透明空間研究と言って研究していたものもこんなところにデザインとのつながりがあったのか。。)
#村野藤吾
吉田五十八をライバル視していた。東の吉田と西の村野、という二項対立も生まれる。村野藤吾が優れていたのは、数寄屋の弱さに価値を見出し、隈研吾が言う「中間粒子」、建築を構成する小さな部分、唐破風やルーバー、庇などによって大きな建築を小さな建築で実現させた。
(まさに隈研吾の建築の源流ここにあり!というところで情熱もたくさん注がれていた)
#アントニン・レーモンド
「丸太」と「斜め」を見出した。安価な材料として建築工事現場の足場として使われていた丸太を建築材として使うことで、強い木造から弱い木造へとシフトさせた。自邸(1951)の挟み込み構造は後の丹下健三の香川県庁舎(1958)の挟み込み梁につながっていく。斜め(勾配屋根)に関してはコルビュジェが先に見出していたのだが、それを模倣したレーモンドはその後もその表現を続けた。水平垂直の構成がモダニズムに風穴を開けるような表現であった。
更に言うと、自邸で実現させた「孔」、透明な勾配屋根をのせた土間的な半屋外空間も日本の土着的な文化から見出したもの。
#シャルロット・ペリアン
民藝の歴史に唯一登場する女性。民藝といっても、男性主義的だったもので、その背後にある女性の存在を気づかせる役割を果たした。
終戦後、冷戦期における日米関係の発展の方法として、建築が採用された。(こういう視点を建築家が持てるということが隈研吾の魅力なのではないか、と思った。)資本主義として、住宅が商品となっているアメリカにおいて、日本の和風建築は新たな価値のある住宅商品の1つとして映った。そのきっかけとなったのが1954年にMOMAの中庭に書院造の日本建築を設計した吉村順三。このときは光浄院をモデルとして白っぽい真新しい木材を使って作ったため、米国人にとっては商品の1つとして映った。先述のKATSURAは1960年に出版された。こうして日本建築をモダニズムに偽装していく流れが急速に出来ていった。
その後、日本ではアメリカと手を組んだ日本的モダニズムに相対して、岡本太郎のような土着的な縄文文化を根っこにした派閥が論争となる。宮廷的桂離宮と武家的東照宮の二項対立とほとんど同じ構図で、「弥生的モダニズム」と「縄文的ナショナリズム」が争い、潮の流れは縄文的になっていく。
そんな中、建築会のスーパースター丹下健三は弥生的なものと縄文的なものの中を揺れ動きながら新しい価値を創出していた。弥生的なるものとは、繊細な柱構造による日本の伝統建築のことを指す。
一方で縄文的な建築とは、つまりコンクリートを荒々しく使うことだった。
ナショナリズムからだけではなく、高度成長期に必要とされた大量の建物をつくるためにも縄文的な建築が圧倒的な勝利を収めた。そうして丹下健三の縄文的な部分だけを引き継いだ弟子たちがメタボリズム運動を展開していく。
その先に待っていたのは「地方と東京の分断」、「モダニズム建築と生活の分断」だった。
生活に関して言うと、食寝分離を志向する51C型の開発。そこでは日本建築で重宝されてきた引き戸が効果を発揮している。(ここで隈研吾は東求堂を引き合いに出しているのだが、その結びつきはやや強引か)51C型に見られる「小ささ」、「低さ」と「貧しさ」に隈研吾は着目しており、その後の日本の住宅空間が大きく、高くなり、引き戸が開き戸に取って代わったことで退屈な堕落の坂道とまで批判している。(建売住宅業者のもとで働いていた身からすると(自分は建売事業をやっていなかったけど)非常に手厳しいが芯を捉えている)
プレハブ化、ツーバイフォーの流れの後に在来木造住宅の復活があった。柱の位置すらも動かすことが可能なフレキシブルな軸組の賛美、そして隈研吾自身が体験したバブル崩壊後の地方での木造建築との出会いへと話がつながっていく。ある種、自分を日本の建築史の中に組み込もうとする壮大なプロパガンダだったのではないかとも思えてくる笑
最後に、はじめて知ったものや興味深く見ていた図やキーワードを画像つきで残しておく。
これらの画像はすべてオンラインで拾ってきたものだが、URLは埋め込んでいないことはご勘弁。
#撚子連子窓(ねりこれんじまど)
これはベトナムに来てから、民家や寺の縦ルーバーが斜めになっていてかっこいいとずっと思っていたのだが、ひし形あるいは45度回転させて設置するという日本でも伝統的な手法だったらしい。隈研吾はこれを歌舞伎座のファサードに用いた。

#四方柾目
柾目というのは木の年輪線が縦に入って見えるというもので、それが柱の四方にあるものを四方柾目という。吉田五十八は面取りをした部分にも柾目の表現を付したいがために、シート状の素材を使うことに躊躇はなかった。非常に表層主義。
(この表層主義も近年の隈研吾の作品との共通性が見いだせる。隈研吾の作品の場合は法規に主に縛られているのだろうが。この視点があった上で見れば、納得感を持って見られる。)

#新歌舞伎座 (村野藤吾)
通常は建物の角とかにのみ使われる唐破風を建物のファサード全体に展開させたことによって、波々の可愛らしい造形となった。「中間粒子」をうまく使っている好事例。考えてみると隈研吾のやり口はまさにこれで、自分がNiwa事務所でやっていたデザインもこれなんだわ、と思った。
やはり、デザインでもなんでも元ネタを知らないといけないよな〜と思った次第です。

#千代田生命本社ビル茶室 (村野藤吾)
村野藤吾が設計した茶室の障子。(ラ・トゥーレット修道院でクセナキスが作ったような)繊細なパターンが美しい。

#楊枝柱
見たことも聞いたこともなかった!茶室で使われるらしい。
「丸太が土壁の中に消えていく」表現で、千利休が製材主義の書院造を批判するための手段として丸太を導入し、そのデザインを発展させるなかで好まれた表現だそうだ。


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