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Archidance Renovation M.

ここのところ取り組んでいるリノベーションプロジェクトを対象とした映像作品が完成した。

撮影や打合せは1月から複数回行い、その後ゆっくりと編集作業をしていた。

今回の作品とは何だったのかを考えてみよう。

#1. 建築空間の中に入る

 今までいくつかの動画作品を作ったが、いずれも外側−一般的な”建物(建築)”のイメージ−を対象としてきた。もとはといえば、小難しい建築の論や批評というものを取り除いて、ストレートにその面白さやかっこよさを一般のひとにプレゼンテーションすることが目的であったので、わかりやすさを優先した結果、建築の外表面を扱うことが多かった。また、撮影の問題等で比較的自由のきく屋外を選ばざるをえなかったこともある。パリや新宿で撮影した作品は、都市へとその触覚というか感覚を拡張させようと試みた。こう振り返ってみるといずれの作品も建築を身体で捉えようとする一方、ベクトルは内向的ではなく、外へ外へと(建物的にも精神的にも)向かっていたようだ。

 さて、今回の作品はといえば、ほとんどすべてのシーンが室内で撮影されている。そして、わかりやすさや説明などを排しており、自己完結的に始まり、終わる。それはダンサーが戸を開けて建物の中に入り、そして出て行くこと、時間が巻き戻ることなどからも明らかである。見ている人はオルゴールの箱のなかをのぞき見てしまったような経験をすることになる。

 今までは断片的なシーンを割合ぶっきらぼうにつなぎあわせたものを作品として提示していたが、今回はそのなかになんとなく視覚的な連続性を持たせる意志が働いていたようだ。それは建築空間の内部であれば自ずと思い浮かぶようなテーマであろう。あっちからみていたものを今度はこっちからみる、そして今度は見られているところからもとの場所を見返す、など他愛も無いこと。が、しかし、この編集を経て出来上がった作品は以外にも(当然ながら)物語性を帯びていた。

#2. 物語性

 なんとなくのプロットは意識しながら撮影、編集をしてきたが、最終的にはいつのまにやら状態で今までは作品を完成させていた。今回も全く同じはずだった。というよりも、今回はより明確に”物語性を持たせない”というスローガンを掲げていた、にも関わらずいつのまにやらひとつの自己完結的な物語が出来上がっていた。物語性を排除したかったのは、作品が一元的な理解しかされないこと、そしてなにより自分が一元的にしか作品を作れなくなってしまうことを危惧していた。そうなれば世にも面白くない映像の出来上がり。今回の作品がそうなってしまっているのかは正直なところ分からないが、”空間をみる、見せる”ことができていればそれで良いのかと思っている。というか、それがもっともやりたかったことなので、変に物語とかなんとか、という解釈をされてしまうような付加物をつけてしまったことは失態であったろう。

#3. 建築空間の中で

 今回、実際の設計プロジェクトとして動いているところで撮影を行った。そのため、誰にも気兼ねせずに建物の内部も外部も撮影出来た。敷地周辺も閑静な住宅街で歩いているひともまばらなので、人目をきにすることもなかった。

 もともとの中古住宅をスケルトンにして詳細なインスペクションを行ってから設計に入る、という工程を踏んでいるため今回のような撮影を行うチャンスがあった。この、裸の構造体が露出する空間とは何か。その中に人間−身体−が入るとどのように空間が見えか、変わるか、感じられるか。そんなことが今回の作品のもっとも大きなテーマであった。普段はみないスケルトン状態の家。築40年の外壁はそのままで、戸を開けると、その場所がかつて有していた空間を形作る構造だけがそこにある。かといってそこに物語があるわけでもなく、ただ、そこにある、ということだ。

#4. 他人の身体

 自分の身体を使った作品に限界を感じていた。パリのBnFを扱った作品では一切をダンサーに表現させた。そこには自分の想像力を超えた身体的な発見があった。自分より動けるダンサーが踊るのだから当然のことだった。自身の身体を通してしか知覚出来ないものなど、たかが知れている。今回もダンサーにはおおよその方向性とシーン毎の目標というか、意識みたいなものを伝え、あとは全て任せた。当然、ダンサーが異なれば身体も異なる。髪の毛や手の形、皮膚の状態まで見えてくる。撮影や編集をしているとなおのことだ。その場での発見よりも今回は編集時に後発的な発見のようなものが多かった。

 しかしながらこの空間のなかに現れる身体は誰のものでもなく、匿名的な、誰のものでもある身体である必要があった。実際にはこんな身体を持つ人は一握りなのだが、動画を見ている受け身の状態ではそんなことまではなかなか考えが及ばないものだ。身体が匿名であれば、人間も匿名でなければならない。それはつまるところ衣装に現れる。白だ。今回は衣装を考えたり準備する点で大いに助けられた。より解像度の高い状態で見られるため、質感や細かい色にも気を使う必要があった。

#5. 高画質

 カメラの使い方を少しだけ勉強した。録画方法を変えるだけで格段に画質が上がった。編集や書き出しにも注意を払った。こういう表面的な、技術的な話題が作品にどんな影響をあたえるか、ということは今回自分的に大きな発見であった。チリが舞って、いつのまにか空間全体がぼんやり、汗をかいているようにみえたり、それが実際に汗をかいているダンサーと呼応しているようであったり、光の入り加減と相まっていつの間にか、身体の介入によって空間に生命がもたらされたような、そんな想像力(作り手側の)をかきたててくれるような発見があった。その分今までのように適当な技術で撮影をした部分は、アラが目立ってしまう。荒削りのもつ底知れない可能性が削ぎ落とされてしまっているのかもしれない。しかし、いつまでもそこにとどまっている訳にはいかない。

#6. 建築空間の中で②

 建築的なシークエンスをこうも正直に、こっ恥ずかしく感じてしまうほどの表現−そんなことをしたいと思ったことすらなかった−を初めてした。しかし、それは水平的な視線の移動(対象の移動にかかわらず)ではなく、垂直的な視線の移動であったことに価値があると思っている。スケルトン状態だから成し得た、というか想起しえた画角であったろう。実際に起こっていることといえば既存の間取りで言う廊下を東から西に向かって歩いて、階段を登る、というなんのことはないシークエンスなのだが、それを捉える視線は真後ろから真上、そして正面へと変化していく(変化しているのは対象であるが)。ドローンを使って撮影したかのようなアクロバットさを表現できる可能性を感じていた。また、2階から回転しながら落ちていくようなシーンもこれに同じで、スケルトン状態の空間が与えてくれた想像力であった。

#7. 身体が

 この作品のシリーズの最終目標のようなものがあるとすれば、身体と建築がセックスしている映像をとるということだろう。身体は美しい。官能的だ。建築も美しい。官能的だ。しかし、両者は今まで交わることのない平行線をたどってきた。なぜなら両者の理念が異なる出発点を持つからだ。一方は再生産を、もう一方は超時間性を志向している。だが、私は両者のセックスを見てみたい。してみたい。

#8. 設計へ

 修士設計では表象としての身体による経験の建築、というものを考えた。それまでの活動が建築を身体で表現するものだったとすると、その逆は出来ないか、という課題設定だ。当然やった。身体の表現から建築を設計した。それは素晴らしい作品だった。だが、夢物語である。今回の作品は、一年前に修士計画でやろうとしていたことを現実世界で実現しているのだ。設計のツールとして、今回の作品は私の中で何度も反芻されるのである。実際は、”この作品”だけではなく、現場で自分が、ダンサーが身体を動かした全ての経験が設計のツールとして利用されるのであるが、それは私にしかわからないことなので、このような作品をつくって共有を進めているのである。

#9. 音楽

 映像作品をつくるときに音楽は重要だ。特に編集作業をしていると、絶対的な力で作品を支配する道標となる。盲信的にもなる。だが、映像を見る人にとってもこの音楽は作品の印象を決める絶大な支配的権力を持っている。だから、空間を見せたい、といって映像作品を作っても結局は”気持ちの悪い音楽”という印象をもたれるのである。これは非常に残念であると同時に自分の音楽に対する無知と未熟さに起因するものである。ダンサーを起用しているのだから音楽家も起用したいのである。

#10. 建築空間の中で③

スケルトンが与えてくれる新しいパースペクティブは大いにありがたいことだが、それと同時に私はまさに鳥かごの中にいるのである。既存のストラクチャという見える圧力。だがそれは都市の中における建築が考慮すべきコンテクストと同じものなのかもしれない。ただそれを内省的に捉えるか、外に発散させるものとしてとらえるのか。

 まだそこにはない空間、しかしそれはすでに身体と建築との間に孵化している。

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