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A di da phat

時々電信柱に貼ってある紙を見るとこんな文字が書かれていることがある。

アディダスのパチもんの広告かな、と思ってみても電話番号とかウェブサイトが書いてあるわけではないのでどうやら違うようだ。たまたま見かけたところが石屋さんの近くだったから(Daは石の意味がある。アクセント記号は不明)石の種類の広告かなとか思いつつも数分後には忘れていた。

そんなことが何度かあって、ようやく調べてみたら阿弥陀仏という意味だと言うじゃないか!

祈りの言葉を電信柱とかにベタッと貼っているのか!

このギトギトの消費社会に身を浸していると、こうも視界が曇ってしまい、祈りの言葉が書かれた紙を見るだけでこんなにも完動をするとは。



数ヶ月前に祖母が亡くなった。

病気の祖母を訪ねに3年ぶりに日本に帰ったというのにコロナのせいで会えずじまい。

最初に病気の診断が下ったときは余命1,2ヶ月みたいな話だったのが、あれよあれよとそこから半年以上生きていたのだが、亡くなったときにはハノイにいて日本に帰る余裕もなかったので葬式等には参列できなかった。

この前に日本に帰ったときに両親から聞いた話で、墓石にほってあった歌がとても印象深いもののようだったのでここに書いておきたい。


”月かげのいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ”


浄土宗を開いた法然は「阿弥陀仏」を「月」に例えていた。

仏の後光を月の光とたとえ(月かげという)、その光はどこにでも照らされ届かない場所はない。もしその光に気付き、そこに意識を向けるならば阿弥陀の光がその人の心の中に住む、というような意味の仏教歌だそうなのだが、いろいろな解釈ができるようだ。

両親がお坊さんに聞いて感心していたのは、亡くなった祖母は極楽浄土から我々をいつも見守ってくれている。その眼差しを意識したときに祖母の心にもこちらの気持ちが伝わるだろう、という解釈だったとか。これは曲解名人の母の言っていたことで、父はそれを正そうとしていたようだが、これはこれでなかなか信じるに嬉しい考え方だと思う。


宗教というものはまったくもって非科学的で都合の良いものなのであるが、それが時には助けになるときもある、と最近は信じている。

結局は人間が作りあげたお話なので、好きな映画に影響される、くらいの気持ちで接していれば概ねハッピーでいられるのではないだろうか。


今日も月かげが自分を照らしてくれていると感じ、それを意識して極楽浄土にいる祖母にちらりと会釈しておこう。



https://cuean.com/Seppo/Details/17

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