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エデンの東

第一章

キングシティやサンアルド近くの痩せた丘陵地でさえ、すべての土地の所有者が決まるまでに、さほど時間はかからなかった。あの丘にもこの丘にも、みすぼらしい身なりの家族が住みつき、燧石だらけの薄い土壌から生活の糧を絞り出そうとした。半ば絶望しながらも、抜け目もなく、ぎりぎりの生活をつづける。それはコヨーテの生き方に似ていた。金もなく、機械も道具も信用もなく、新しい土地の知識も土地活用の技術もないままに、この地域に入植してきた人々。そんな無謀な企ての裏にあるものを、聖なる愚鈍と読んでいいのか、大いなる信仰と呼んでいいのか、私にはわからない。ただ、今の世からほぼ失われたなにかであることは確かだ。それに、無謀だったにせよ、入植者は現実に生き延び、子孫を増やした。それはなぜか。彼らには一つの武器があった。これもまた今日の世界から消え失せつつあるよう私には見えるが、あるいは暫時の休眠状態にあるだけなのかもしれない。入植者が正義と道徳の神を信じていたから・・・・・・とは、よく言われることだ。その神に全幅の信頼をおいたからこそ、些細な安全の問題を成り行きに任せることができたのだ、と。だが、違う、と私は思う。自分を信じ、自分という個人を尊んだから―価値ある道徳的存在となりうる一つ人格だと信じて疑わなかったから―自分の勇気と尊厳を神に与え、あらためて神からもらい直すことだできたのだと思う。今の世から無謀な企てが消え失せたのは、たぶん、人がもう自分を信じなくなったからだ。自分への信頼がなくなれば、あとには何も残らない。誰か強い信念の人を見つけ、その信念が誤りかどうかには目をつぶって、その人の上着の裾にしがみつくしかない。




第二章

将来がどうなるか、私は知らない。いま、世界には恐るべき変化が起こりつつある。さまざまな力がせめぎ合っている。そのせめぎあいから生まれる将来がどのような顔を持つのか、私たちにはわからない。だが、一部の力は確かに悪と思える。それ自体は悪でなくとも、私たちが善と思うものを排除する傾向を持っている。なるほど、二人がかりなら一人より大きな石を持ち上げられよう。集団でかかれば、一人でやるより良い車を早く作れるだろう。大工場で製造されるパンは安くて均質かもしれない。だが、衣食住のすべてが大量生産という複雑な機構から生み出されるようになるとき、私たちの思考にも大量生産方式が入り込むことは避けられない。それは他の思考方法を排除する。大量生産の時代、集団生産の時代だ。経済にも政治にも大量生産が入り込む。宗教にさえも浸透し、神の観念を集団の観念で置き換える国が現れる。これこそが我が時代の危機ではないか。世界には大きな緊張があり、それは限界点に近づきつつある。人々は不幸で、途方に暮れている。

そんな時代には、次のように自問してみるのが自然であり、適切でもあるだろう。私は何を信じるのか。私は何のために戦うのか。人類は、唯一、創造する生物種だ。創造のための道具は個人の心と精神であり、それ以外にはない。何であれ、二人がかりでの創造などあったためしがない。音楽であれ、美術であれ、詩であれ、数学であれ、哲学であれ、協同による創造などはない。ひとたび創造の奇跡が起これば、集団がそれを敷衍し、発展させていくことはできよう。だが、集団が何かを発明することは決してなく、価値は個人の孤独な心のなかにこそある。

 だが、いま、集団という観念の周りに軍勢が集結し、個の価値を抹殺するための宣戦を布告した。武器は誹謗、中傷、飢餓、抑圧、強制。さらには、洗脳というハンマーパンチ。自由で放浪する心は追跡され、捕縛され、鈍らされ、薬漬けにされる。人類は、種として悲しい自殺への道を選択したように見える。

 私は何を信じるのか―個人の探求する自由な心こそ、この世で最も価値あるものだと信じる。私は何のために戦うのか―心が誰の命令も受けず、望めばどの方向へでも行ける自由のために戦う。私は何と戦うのか―個人の制約と破壊を目指すあらゆる思想・宗教・政府と戦う。それこそが私のあるべき姿であり、私の生存意義だ。あるパターンの上に築かれたシステムがなぜ自由な心を破壊したがるかは、私にも理解できる。自由な心こそ、洞察によってそのシステムを破壊しうるただ一つの力だからだ。たしかに私はそのシステムを理解できる。だからこそ、それを憎み、それと戦い、人間の自由な心を―想像力のない獣から人間を隔てている自由な心を―持ち続けたいと願う。栄光の消滅は私たちの敗北を意味する。


二人とも君に似ているよ。顔というものは創生以後のすべてを内に含んでいるからな




第三章

「・・・でも、ヘブライ語の該当語は『ティムシェル』という言葉で、これは『してよい』という意味です。人間に選択を与える言葉です。世界中でいちばん大切な言葉かもしれません。つまり、道は開かれていて、すべては人間しだいと言っています。してよいということは、しなくてもよいということですからね。おわかりでしょう」

「ああ、わかる。わかるとも。だが、君はこれが神の言葉だとは信じておらんのだろう。とすれば、なぜそれほど重要なのだ」

「ああ、以前からそれをお話したいと思っていました。そのご質問は予期されたことで、お答えする十分な用意があります。まず、多くの人の考え方や生き方に影響を与えてきた言葉は、たとえ神の言葉でなくても重要だと思います。さて、『治めよ』は命令です。これを忠実に受け取って、服従を強いる宗派や教会が数多くあります。また、『治めん』に神の予定を感じ取る人も無数にいて、その人々にとっては、人間が何をしようと、そのために未来が変わることはありません。しかし、『治ることた能ふ』ならどうでしょう。人間しだいです。人間は偉大になり、その地位は神々にもひけをとりません。そうではありませんか。いくら弱くても、穢れていても、弟を殺しても、人間には偉大な選択の権利が与えられています。人間は自分の進む道を選び、そこを戦い抜いて、勝利できるのですから」リーの声は勝利の歌声だった。

アダムが口を開いた。「お前はそれを信じているのかい、リー」

「信じています。信じていますとも。怠惰や弱さから、神の膝に身を投げ出すのは簡単です。仕方がありませんでしたと言い、そういう定めでしたという。しかし、選択の栄光を考えてください。それこそ人間を人間たらしめるものではありませんか。猫には選択ができません。蜜蜂にも、蜜を作る以外の道はありません。そこには神性など、かけらもありません・・・・・。ゆっくりと死に向かいつつあったあの四老師は、いまこれに大変な興味を掻き立てられて、当面、死ぬ暇などないようです」



第四章は特にメモすることなし。

読了。

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