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人生という抽象的なものが具体性を帯びてきた

10月16日にLyちゃんにプロポーズをした。

結果はもちろん成功。

おめでと〜パチパチパチ!



結婚に関しては実は随分前から考えていたけど、一級建築士の試験が終わったら進めようということで、日本に帰ったときに両親には伝えて、銀座でお土産などの買い物をしているときについででフラっと入ったティファニーで美しさに一目惚れしたダイアモンドの指輪をその場で購入した。自分の預金では買えなかったので母のカードを借りた。まさか婚約指輪を買うのに母親のカードを借りることになるとは思わなんだ。が、接客してくれた人も嬉しそうだったし、何より母が楽しんで喜んでいてくれたから良かった。しかし、ダイアモンドというものは本当に美しいものだ。そのきらめきに完全に引き込まれてしまった。


プロポーズの方法は帰りの飛行機とかで何種類か考えていたのだが、善は急げということで家について片付けをして、仕事を終えたLyちゃんが帰ってきて一通りお土産を渡したあとにひざまずいてWill you marry me?をやった。

多少興奮とドキドキはあったものの、そこまで緊張はしていなかったのでもろもろがスムーズだった。

だが、指輪を渡して彼女の嬉しそうな顔を見たときには自然と涙ぐんでいた。あれは、幸せな瞬間だった。


この日から数日は普段口論の絶えない我々において初めてとも言える、誠に甘く優しい日々が続いた。それもそれで怖かったのだが、またすぐに平常運転に戻った。

さて、ここに来て思うことは将来に対する恐れのようなものを漠然と抱き続けてきた15年くらいだったが、(大学生になってくらいから)同棲や結婚、会社の中でのポジションや給料などいろいろなものが具体的になってきたために、漠然とした恐れが現実的な問題となって眼前に現れだした。こんな給料では将来オプションAはおろか、Cも諦めざるを得ないな、とか。今現在もそうだが、未だに自分の現在はいかようにも変わるし変えられる、と俯瞰的な視点を持って自分を見ているため、あまり辛くなるようなことは人よりも少ないであろうし、全体的に楽しく過ごせている。なのだが、その抽象的な未来すなわち人生が一つ一つのイベントによってどんどんと具体化していくことで自分の人生が定まってきたように感じるのだ。そうなると、自分の人生とはなにかという大きな問いが再び頭をもたげるのである。

そして、再生産の一部となることへの義務感とある種の羨望、そしてそれと真っ向から反対する感情がぶつかりあって、何事にもあまり力が入らなくなってしまった。


ここで、最近読んでいたライ麦畑でつかまえてから一節


ヴィルヘルム・シュテーケル

未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。


今の自分にはどちらの言葉も響く。


少し前に読んだ「怒りの葡萄」では生きることがすべての目的になっている人々の姿を描いていたが、自分の人生とどれくらい違うのか、と考えてみると良いか悪いかで言うと自分の人生のほうが悪いな、と思ったりもした。

多分、生きることに目的なんてないし、求めてもいけないのだと思う。

だけれども、生きている中でその目的のようなものを見つける時があって、そうなったらその目的に向かって真っすぐ進んでいく、というのが美しい生き方なんだと思う。


一昔前までは、生きることすなわち食べることを目的化して、その先にある再生産という大いなる目的意識を多くの人が共有していたのだと思う。

ところが、生活に余裕が出来てきて(おそらく幾千年前からも富裕層とか権力層はそうだったのだろうけど)、それ以上のものが望めるようになった途端に、あれ、では何をしたらいいんだっけ?と自由になれていない人間たちは今まさに右往左往しているのだろう。



そして自分もまたその一人なのだ。

残念ながら。

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