top of page

建築家として仕事を探しに行ってみたい場所

ベトナムに来て2年半経ったが、実作が1つ、コンペで勝ったものや負けたもの、計画中、工事中、頓挫などいろいろなプロジェクトがあるが、いまのところこの結果に全く満足出来ていない。

周りを見渡せば、若い建築家がどんどん実作を世に送り出しているだけに尚更だ。

自分の実力が上がっているという実感もあまり感じられていないので、まだまだ修行の日々は続くと思っている。


一方、外国人なのにこんな低賃金なのかという批判というか蔑みすら持たれるわけだが、それは全く見当違いで、外国人だから給料が高いという論理はまったくもってナンセンス。

外国人だからこそできることで、会社の売上や利益獲得に寄与している、ということなら当然その分給料は高くなっていいが、大した仕事も出来ないのに一丁前どころかローカルスタッフの何十倍もの給料をもらっている外国人がとても多い、というかほとんどということのおかしさに気づいていないことのほうがよっぽど問題だ。

日本企業がどこか別の国に来て日本企業通しで、日本のコスト感覚でビジネスをしているのだから、その経済循環を成立させるためにはリトルジャパンをつくるしかないわけで、その社会構造を変えない限りはこのようなおかしな状況は変わらないのだろう。


全然関係ない話が長くなってしまった。

ベトナムに行くことにしたのはVTNで働きたかったからで、それは長年自然と建築を上手にデザインしている点に憧れていたから、だけどVTNで働けなくてもベトナムには行きたい、と思っていて他のいろいろな事務所にもアプライをしていた。それをトロピカルドリームというフォルダにしていたが、ドリームのままだといかんなということでトロピカルフューチャーと名前を変えたりしていた。結局そんなにトロピカルでもないということはハノイに来てわかったことだ。

さて、ではなぜベトナムは良いと思っていたのか?

長年劣等生として建築に携わってきたので、知識や経験に関してひとに引け目を感じていた。

なので、よく見ていたアーキデイリーくらいは毎日欠かさずに見ることにしようといつか決めてからというもの本当に掲載される全作品の全写真を毎日ものすごいスピードで見てきた。

この習慣がどこまで血肉となっているのかというとかなり怪しいところだが、世界中からプロジェクトが集まってきて順列なく水平的に永遠と掲載されているので、各国の建築事情を見るのにとても役立っている。

そんななか、ベトナムの建築は造形をしっかりつくって、緑と自然と非常に美しく調和するような作品が多く、好感を持っていた。だからベトナムに仕事を探しに行きたい、と思っていたのだ。


毎日欠かさず見ていると、一枚目の写真を見ただけでだいたいどこの国の作品か見当がつく。国までわからなくても地域など。それは空の色だったり、電線だったり、周りの建物だったり、植物の種類だったり、中に写っているひとだったり、その写し方だったり、その建築の作品自体とは直接関係のないものがほとんどだが、点景の入れ方1つとっても各国で違いが出るのがおもしろい。

アメリカ、オーストラリアは家族が楽しそうに過ごしている(子供は必須アイテム。時々犬)し、

日本は言わずもがなでモデルに空間を説明させているし、

中国は物語性の高い演出や、写真自体を芸術的な表現にしようとする傾向が伺える。


空の色も重要だ。なんとも言えないいろいろな色が混ざり合っているような不思議な空はアメリカに多くて、あれはあれだけでかなりインパクトがある。

南米の青空とアジアの青空も似ているようで全然異なるし、透明度が高いヨーローッパの青空もすぐにわかる。

そもそも青空が少ない地域もあるわけで、中国の作品では霧を使って幻想的に演出しているものが多々ある。

空を大きく切り取る電線も国や地域によって特徴が出やすい。

そもそも電線などないという国のほうが多いが、比較的整理されている日本の電線に比べ、韓国はやや乱れ、東南アジアや南米は一気に量も乱れも増幅される。


で、建築の作品自体に話をもどすと、ベトナムは目を引く造形(総じてセンスが良い)があるのだが、実際に来てみてわかったこと、そして多くの作品を見てきたことから言えることは、これらの造形はかなり表面的で軽薄であることだ。コンセプトを深く突き詰めたり、意味をもたせようとすることが少ないし、歴史的な関係性のようなものも特にない。だが、設計をする際のツールやセンスがとても優れているので、なんとなくかっこよいものが出来てしまう、という印象だ。

だから、最近はベトナムの建築作品を見てもあまり感心しなくなってきている。

一方、日本の作品は完全に社会全体の行き詰まり感が見えてくる。もちろん、成熟した社会において、それでもまだ挑戦を続けているという意味ではどの作品も意欲的なのだが、その熱意が間違った方向に進んでいるように感じる。素材の扱いが面白さと既製品へのアンチテーゼからプアなものになっていて、職人仕事が増えるとコストが上がるので、大したデザインが出来なくて、せいぜい綺麗にディテールを収める、というくらいしか挑戦が出来ない、という印象。

一方、韓国はそういう窮屈さをあまり感じずのびのび好きなように建築を作っている印象がある。

中国は圧倒的件数で規模も極小から極大まであって、地方によっても全然異なる傾向があるのだが、ここでも共通して言えることは成長の勢いと夢、自負のようなものが作品に溢れているあたり。それと、デザインが一周遅れか非常にやんちゃである、といったところか。一周遅れというのは、どこかの国で10年前くらいに似たようなものを見たことがある、という話でその参照元が微妙なのですぐわかる。やんちゃなデザインというのは、形から素材までいろいろなチャレンジをしていて、しかも施工のクオリティも高そうなのだが、なにかこう、感動するまでには至らない、といったところか。

タイは東南アジアということでベトナムと同じような気候でまとめられそうなのだが全く異なる。富裕層向けのレジデンスがよく見られるのだが、とにかく外壁が白い。そして近代化した社会をめざしているという気概が感じられる清潔感と、白と黒のようなコントラストの強い色使いが多い傾向にあるのですぐにタイの作品だとわかる。

東南アジアでは、インドネシアやフィリピンからの作品もあるがこれらはタイとベトナムの間、といったところ。


南米は地域色を強く打ち出すメキシコ、造形もテクスチャもグリーンもセンスよくまとまっているブラジルなどアジアより面白そうなのだが、全体としてみるとどれも同じような言語で物足りない。

アメリカは法律が厳しいのか、一部のスターアーキテクトを除くと非常に保守的で平均的。

ロシアを含めた旧ソ連諸国のインテリアの作品にはかなり強い個性があり、社会に対するくすぶる不満が若い人の感覚でアーティスティックにぶちまけられている。


フランスは住んでいたからか、なんとなくすぐに分かってしまう。以前一度分析したら、窓のプロポーションと外壁のパターンにかなりの類似性があることがわかった。四角い建物が多く、あまりチャレンジングではない。

ポルトガルは圧倒的にアルヴァロ・シザの影響が強く見られ、白いけど抽象的でない空間が強い。

ドイツはお決まりどおりの背の高さとディテール勝負。

ヨーロッパの中で最も期待はずれなのがスイス。大規模木造などの作品も多いがとにかく外観がフラットにおおきな四角い開口というバカの一つ覚えでひどくつまらない。


逆に最も刺激的なのがスペインだ。色彩感覚や造形センスに長けており、1アパートの改修でも爆発的な想像力が詰まっている感じがする。経済的にもあまりいい状況でない時期が長く続いているので、その鬱屈がはき出されている感じなのか。

とても興味があるが、行きたいとまでは思わない。ラカトン事務所で会ったスペイン人の建築家たちは国内には仕事がないと行ってパリに出てきていたのでその悪い印象を引きずっているのかもしれない。


アフリカの建築は、というかアフリカはまったくもって未知の世界。

ボランティア的なプロジェクトが多いが、建築自体には魅力を感じていない。

だが、人生で数年でもいいからアフリカに住んでみたいと思っている。


タグ:

Latest

タグ検索
bottom of page