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文化、伝統、慣習などぶっ壊せ!

今年のテトは結婚後初ということ、かつLyちゃんが長く休みを取れたので、4泊5日でThanh Hoaの実家に帰っていた。

毎度ながらやることもなく食べて寝ての繰り返しで辟易としていたし、ベトナム語がよくわからないところに放り出されて愛想よくしなければならないうえにお酒はあまり飲ませてもらえないので、本当に八方塞がり。2,3日ならまだしも5日も続くとストレスの限界点を迎えていた。だが、今回は本を二冊読み終えたし、くだらないものの映画も何本か見られたのでまあよしとしよう。


さて、小言はここまでにしたいところだが今回のテトで腹立たしかったことがもう2つ。1つ目は、つい最近結婚した義兄(長男)の妻があまり、というか全く社交的でない、というか最低限すれすれ以下くらいの努力しかしない態度だったこと。2つ目は食事がすべて冷たくて美味しく食べられなかったこと。

1つ目の小言は2つ目に間接的に関係するので敢えてここでも書いている。ベトナムでは(調べてみると北部では)家族揃って食事を始めることが常とされており、それに関しては同意する。が、ようやく準備が整って食事が始まる間際にあっちにいったりこっちにいったりしている人がいると、なかなか箸がつけられない。それが腹立たしい。

その遠因となったのが1つ目の小言だが詳しくは語るまい。

食事がすべて冷たくて美味しく食べられなかったことに関して。

これはこのブログを書くことになった理由である。

単純に、(テトの時期は特に)ご先祖様にお供え物をするので料理が作られるタイミングが食事のタイミングよりもずっと早く、人間が食べるときにはすっかり冷たくなっているのである。

さて、これのなにが問題か。

2つの相反するサイド(側)に分けてこれを考えていこう。


A:すべての食物はご先祖様に楽しんでもらってから私達生きている人間が食べるものである

B:食事は温かいときに美味しく食べたい


予めこの問題に終止符を打つ、自分の知っている解決策を述べると、先祖様用に用意する皿と人間用の皿を別にして同時に食べ始めればみんなで美味しく一緒に食事ができる。これは祖母のうちでとっていた方式だ。

しかし、今回はもう少しこの件に関して掘り下げて考えてみたい。

サイドAから、


そもそもなぜ先祖に食事を供するのか?


これは仏教の教えで先祖を敬うということに起因する。

では、なぜ仏教では先祖を敬わなければならないのか?


それはそういう宗教だからとしか言いようがない。

ではなぜそういう教えにしたのか?


そのような教えを作り、実践することで自分の死後も幸せに過ごせるように信じたい、ということがまず挙げられる。

自分を祖先の犠牲にして、自分の子供や孫にも同様なサクリファイスを求めることが自分が死後に幸せに過ごすための唯一の方法、手段となる。

そうすると現世の幸せはどこかにいってしまう。(あれ、これはイスラム教のようだな)

そして、この実践を継続させることがいつのまにか目的化する換骨奪胎が起こった。


少々過剰な解釈ではあるが、こういう考え方もありだろう。

2つ目の理由は宗教によって国家(あらゆるサイズの集団としての)をひとつの同じ方向に向けさせることが考えられる。1つ目の理由を拡大解釈していくと実践が目的化した日々の行いになったので、2つ目の理由はほとんど同質のものであるが。

Weではじまる主語によって語られる慣習は時を経て文化や伝統となっていく。

その過程でWeの結びつきは強くなっていく。

結果的にWeは国家を形づくる堤防を強化していく。

ここまで考えた上で先祖に食事を供することを考えて誰かが始めたのだとしたら本当に恐れ入るが、実際のところは自分の解釈だから始まりがどうであるか、どのように運用されてきたかは重要でない。




最近ようやく読み終わったジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』から引用したい。


”食糧生産は、定住生活を可能にし、さまざまなものを貯め込むことを可能にしただけではない。食糧生産は、ほかにも人類の科学技術史で決定的な役割を果たしている。食糧生産は、人類史上初めて、農民に生活を支えられた、非生産民の専門職を擁する経済システムに基づく社会の登場を可能としている。そして、本書の第二部ですでに考察したように、食糧生産がいつ始まったかは、大陸ごとに異なっている。さらに、この章で考察したように、社会は、そこで独自に発明された技術だけでなく、他の社会から伝搬した技術を使用し維持するものである。したがって、技術は、その伝播をさまたげるような地理的障壁や生態系の障壁が大陸の内外に少なかった大陸で発達した。また、さまざまな理由によって、社会の革新性は個々の社会によって異なるため、大陸に存在する社会の数が多ければ多いほど、技術が誕生したり取得されたりする確率も高くなる。技術は、すべての条件が等しければ、人口が多く、発明する可能性のある人々の数が多い地域、競合する社会の数が多く、食料の生産性の高い広大な地域で、最も早く発達する”


唐突にこの書を引用したのは、この書は人類の歴史をかなり大きな視点で捉えているからである。

1.移動型の狩猟採集生活から食糧生産を行う定住生活に切り替えられたこと

2.食糧生産定住生活によって必要十分以上の食料を生産することができるようになったこと

3.その余裕、余剰ないしは余幅によって統治システムや新たな職を生み出していったこと

4.そこから文明(経済、政治、文化等)が生まれ育っていったこと

5.その継承と発展(例えば文字のあるなし)によって成長のスピードに差が開いていった


これくらい曖昧というか、大きな視点で人類を見たときには日常の多くのものごとがくだらなくなるのだが、その実、日常の一つ一つのことが気になり始めるのである。

そういう自分の現在進行系の背景があったことによって今回の先祖に食事を供することがあらためて興味の対象としてあぶり出されたのである。




閑話休題。

サイドBについて。

これは至極簡単。

美味しいものを美味しいタイミングで食べたいから。非常に動物的な本能、欲求である。

敢えて文化的な側面を補足するならば、調理者側からは美味しく作ったものを美味しい状態で食べてほしい、食べさせたいという欲求があり、食べる側は自身の欲求に加え、この他者=調理者を幸せにすることで全員が幸せになれるようにしたいという社会的欲求がそこにはあるのである。



サイドAとサイドBを危険ではあるが簡略化して考えると、社会的規範 vs 個人的欲求、あるいは文明 vs 本能、伝統 vs 欲望のように表現する事ができるだろう。

個人的に今回の件では、自分はサイドBを代表する立場にいるので個人的欲求によって社会的規範をぶっ壊そうとしている。なぜなら社会的規範は時として無意味で(上記に説明したとおり手段が目的化している)あるからだ。

今回の件においては相手が人間でなく先祖(幽霊)なので科学的に根拠のない慣習によって出来上がった文化、伝統を否定しているが、これを拡大解釈して殺人をしてはいけないという社会的規範を個人的欲求によってぶっ壊すということは当然許してはならない。実はこの社会的規範という考え方も時代によって変わるため(例えば禁酒法だったりドラッグの合法化だったり)、現在時点での、しかもある一定の場所においてのものとしてしか扱えないため、また今度深堀りしてみたい。

また脇道にそれてしまったが、今回の件においてはサイドBにもまだ多いに勝利の可能性は残されていると考えられるのだが、そもそもここまでしてテトの冷たい食事を長々と批評しているのは自分の仕事に結びつけて考えたときにゲシュタルト崩壊を起こしそうになるからである。


自分はベトナムで働く外国人建築家として日々その土地に根ざす文化や伝統、歴史の価値を見つけ出し、磨き上げ、建築のデザインに落とし込むことをしている。なぜなら外国人の視点で見ることで現地の人には価値がないと思われていた日常や文化にスポットライトを当ててあげることができるからである。

その自分が、おいしい食べ物を美味しく食べたいがゆえに社会的規範や伝統、文化、慣習をぶっ壊せと言っているのである。

快適に住めれば建物なんてなんでも一緒じゃん、といっているようなものだ。

だが、ここに建築家という職業に隠された矛盾というか欺瞞というか偽善があるのである。

それは、建築家自身は自分の設計した建物を使わないということである。

クライアントには文化や伝統がどれだけ大切かと説いているくせに、自分はそんなものとは全く異なる快適でプラスチックな生活を送っているのである。


要は何が言いたいかというと、物事は立つ立場(サイド)や経験によって見え方が全く異なるし、建築家のような者は時として立つべき立場に立ってすらいないことがあるということだ。

伝統的な住居がなくなることを憂うが、そんな不便な生活をしたこともなければするつもりもなく、さらには経済的なサポートをするわけでもないがただ文化の継承や保存だと言って喚き散らす。赤子のようだ。


あまり毒ばかり履いていても意味がない。

新たなる解決策を見出したい。

文化、伝統、慣習に関して考えるときにさまざまな立場に立ってその意味や価値、有効性について検証をすることは大前提として必要であろう。

その上でそれらをアップデートするようなアイデアを生み出すことが私達の仕事である。


”技術は、非凡な天才がいたおかげで突如出現するものではなく、累積的に進歩し完成するものである。また、技術は、必要に応じて発明されるのではなく、発明されたあとに用途が見いだされることが多い”


再び前出からの引用だが、驚いたことにワットの蒸気機関やエジソンの白熱電球、ライト兄弟の有人動力飛行機にしても、天才が雷に打たれて発明したのではなく、その前に度重なる技術の前例と発展があった上での大きな成功であったらしい。


建築家のような仕事で文化的なものに価値を見出すとかいうことが大事なのはもちろんなのだが、我々の日々の生活における少しの工夫や発明が人類が連綿とたどってきた過去からの贈り物をアップデートして将来に受け渡す我々の使命であり、その使命を意識した途端に日々の生活に意味や意義を見出すことができるようになり、なんとなく心がふわっと軽くなるような気がするのだ。




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