傘がない
僕は傘をささない。
傘をさすのが苦手で小さい頃からずっと嫌いであった。
そんなことを考えながら生活していたら、昨年位友人に
傘は嫌いだろうけどちゃんと傘をさして病気にならないように、と餞別
の言葉に言われた。
それ以来、自分が傘をささない人間であることを意識し始めて、この一年半以上傘をさしたことがない。
他人の介在によって明らかになる自分の本質というものがある。
明らかになることで意識的になる。
この行程を踏むことで我々は天才でなくなる。
意識的な人間になることが我々を凡庸な人間に貶めるのであろう。
とはいえ、この時代に他人に認められて自分の本質を知り、その本質に対して意識的にならないひとはもはやいないだろう。
そういう状況を俯瞰したうえで、如何に自分が他人によって見出された自分を演じ、その想定を越えていく事ができるか、ということが現代の我々に問われているのだろう。
だがしかし、僕はそのような計略的な姿勢を持ちたくない、なんて青いことを昔から考えている。
他人に見出された自分を演じる(場合によっては自分の信じる自己を演じる)ことはなんだか欺瞞というか、どこまでうまく演じることが出来ても、それは演技にほかならない、ということを自分自身が一等分かっていて、そういうことは同類の人間にはすぐにわかってしまう。
それでもその演技の巧妙さ、というか素晴らしさに心を動かされることもある。
とはいえ、演技は演技に他ならない。
演技をしていない人間に巡りあった日には、それまで自分が出会ってきた欺瞞的人間たちなぞは見事に偽物、汚辱のレッテルを貼られてしまう。
ともあれ、そういう意識的政治に関しては誰にも言うべきことでもないのかもしれない、
とは思いつつも、地元の統一地方選の選挙活動を見ていて甚だ残念に思ってしまったのである。
でも、選挙には行きましょう。