ここに私の居場所はない
X-MANシリーズを見て興奮したのは先月のこと。
SF映画を見ると子供の頃のように大はしゃぎしてしまう。
もし自分がX-MANの能力があったらどんなものだろうか、とか
実は自分にはプロフェッサーのような能力があって今までの成功体験は全て自分で操っていたからだ、とか
ミスティークになれたら何になるだろうか、とか
ほんとくだらないことを考えてワクワクしたり落ち込んだりしている。
結局小学生の頃からこの感覚は変わっていないし、この先も変わらないのだろう。
大学時代には自分探しの旅と称してモラトリアム期間を過ごしてきた。
その後もなんとなくモラトリアム期間を延長しているような感覚がある。
だが、今になって思うのはこのモラトリアムの先にあるものだ。
決定や結果を避けて可能性ばかり残してきたがいつの間にか可能性も選択肢も減ってきたように思える。
廻りの人は恐らく学生時代になんとなく自分はこういうもの、というレッテルを自らに貼ることで適正な位置にコマを進めているのだろう。
まちに出ると実にそのことがよく分かる。
夏真っ盛りの江ノ島に行ってみたが、とてもその場所に似合っている人がたくさんいた。
ここに私の居場所は無いと気付き(行く前から分かっていたことではあるが)直ぐに退散した。
さて、私の居場所はどこにあるのだろうか。
とはいえ、前までは停滞する世の中で成長なんて無駄だとか考えていたが、
そうではないのだ。
このゲームに参加した以上走り続けて行かなければいけないのだと強く考えるようになった。
そうなると、今までの古い価値観に縛られて化石のようになっている建築家像からの脱却が必要で、自分はそれを実現するのだと、なんとなく前向きな自分の姿が見えてきた。
しかし最近の安倍首相の顔色はすごいものがある。
圧倒的な孤独と苦痛が見えてくるようだ。
そんなことはどうでも良いのだが。
自分だらけの自分が設計した家
今年の夏休みは別荘気分で楽しんだ。
シリメツレツ。