理由なき憎しみ
なんとなくあれは嫌い、みたいな曖昧な感情論が年月を重ねるとまったくもって非論理的な理由なき憎しみに変わっていく。
人種差別や〇〇差別のようなものはこうして生まれるのだろうと自身の実体験からも思えてくる。
だからこそ、常に自戒を込めて、冷静に、自身の個人的感情と論理的説明可能な意思表明とを区別しなければならないと思う。というよりも支離滅裂な個人的感情をどの様にして論理的説明可能なものにするか(置き換えるか)、あるいは個人的感情を論理的説明可能な意思表明に一致させるようにするべきか、充分に検討してからでないと人様とはお喋りができない。
そのあたりのことは「失われた時を求めて」を読んでいても思い知らされる。
これは100年前に書かれたものだが、現代のポピュリズムと民主主義の対立を批判しているようで、それが予言的というか過去は繰り返されるというか、そんな知識が大いなる無駄話の中に詰まっているようで読む手を容易には休められない。
現在制作している広告で使用するためにに画像提供サイトで「シニア」と画像検索をした。
白髪の(髭を生やしていてちょっとイケている)老紳士が様々な格好で様々な共演者と兎に角楽しそうに破顔一笑で笑っている写真が大量に画面上に現れた。
この老紳士は一体人生で何度この「最高のスマイル」をしてきたのだろうか。
それに比べて一人で都市を歩く自分の詰まらない、ふてくされた顔はなんだろうか、と思った。
音が聞こえない遠くの花火と、見えないけど音だけ聞こえる近くの花火。
もう一月以上前のことだが、そこらじゅうで同じような事件が同時多発的に起こっているのだと、そしてそれに応じて多くの人が連動しているということがこの時
わかったような気がした。
とにかく、自分が考えているよりも人はたくさんいるようだ。