国家とはなにか
マックの辞書によると国家は以下のように英訳できる。
【民族集団としての】a nation
【政治的な】a state
【主に地理的な】a country (⇨国)
〖政府〗government.
いま考えている国家は、nationのラインだ。
新聞の発明によって国家という概念が出来た、言い換えれば統一の言語による情報の共有を通して人々は国家というものを意識し、帰属意識を持つようになった、みたいなことを大学の授業では習った。
その他にこれといって勉強をしてインプットした情報がないので、国家というものは統一言語を通して成り立つものだ、と考えてきた。というか考えることするしなかった。
ところが、ベトナムに来て多くの外国人に会ってその考え方が少し揺らいだ。
今住んでいる家のガール・ネクスト・ドアはマレーシアから来て国連で短期間のボランティアで働いている。ボランティアなのに自分より給料が高いということには驚いた。
彼女は確か5言語をしゃべるという。マレー語、英語、広東語、中国語、あと彼女のルーツの中国系民族の言葉。驚いたことに、どの言語でも本が読めて支障なく喋れるそうだが、私が日本語を繰るように扱える言語は一つもないという。いつの間にか5言語が喋れるようになったのかと思いきや、とてもハードに勉強して習得していったという。華僑系マレーシア人というのが彼女のアイデンティティなのだろうが、その概念自体がただの日本人である自分にはなかなかうまく理解できない。
一方、事務所のインターンでたくさん出会ったインド人もほぼ同じようなことを言っている。そのインドでは世界最大の民主主義国のはずであったのに政府の政治的ポリシーに従って宗教排除を行っている。
大きな国だから言語も違えば姿形も違う。さらには宗教まで違うのだから、これをどうやって国家と呼び、意識するのかは非常に難しいことだろう。
翻って日本ではたいていみな同じ姿形で訛りはあれどみな日本語を話す。現代では多くの人が無宗教だし、宗教によって人を判断するようなこともあまりない(ただ宗教自体に対する恐怖感をもつひとは多くいるだろう)。なので、日本という国家を意識することは容易い。その分”ガイジン”という言葉に代表されるように我々、彼等という構造が鮮明化する。
ラッキーなことに、日本は過渡期にあり、鎖国路線と開国路線(人々の意識の問題)のいずれをとるかは我々の手中にある。
キャピタリズムとグローバリゼーションの後にやってきた幼児化とナショナリズムが微妙なバランスで揺れる今日、根無し草のようにベトナムで生きている自分だが、周りの人は自分の200倍位強く日本人として自分を見ている。世の中の多くのニュースは身体レベルに落し込んで理解するのが非常に難しいが、このテーマに関しては日々の生活や考えから身体化できるから、じっくりと考えて、自分の主張を持つことにしよう。
自分の主張をもつことは透明な自分からの脱却の第一歩だ。