top of page

世界の分断に際して思うこと

シェアオフィスをしている隣の事務所のスタッフがF2と日曜日に接触していたことが判明したのが3/25の水曜日。

彼女は普段どおり月曜日、火曜日は出社しており、月曜日は22時近くまで働いていた。

自分のボスはかれこれ2週間近く前に奥さんの出産立ち会いのために日本に帰国しており、この騒動が大きくなると3月中は帰ってこられなくなるだろうなどとスタッフの間では冗談を言っていた。

水曜日の朝は一部でものものしかった。

定例の朝ミーティングが終わると隣の事務所のボスに呼び出され、我々はF4であると伝えられた。正直なところ、F4が何を意味するのか全く知らなかったので、最初は何の話をしているのかさっぱりわからなかった。隣にはAdminのスタッフがいて、冷静に話を聞いているので焦りや不安などは無いようだったが、彼女は既にこの事実を知っていたのだろう。いずれにせよそんな冷静な周囲の立ち振舞があったので、誰もパニックになることもなく、かといってトンチンカンに楽観的であるわけでもない、適度な緊張感があった。

F4というのはF3に濃厚接触したひとで、F3はF2に濃厚接触したひとのことで、F0が感染が確認されたひと。なので、F4はF0の玄孫にあたる。そしてこれから我々が接触する人たちはF5になる。

ベトナムではF4,5に関しては感染の疑いが低いが2週間の自主自宅隔離と近所の人民委員会に報告するよう指針が出されていた。

F3の彼女とは月曜日、火曜日の間に直接喋ったこともないし、別の部屋で仕事をしていたので、仮に彼女が感染していたとしても、自分は濃厚接触していたとは思えないし、そもそも彼女自体が感染している確率も不明だし、彼女が接触したF2、更にはそのF2が接触したF1が感染していなかった可能性も考えられる。そうなると自分が感染しているリスクは”この経路において”限りなく低いように見積もれた。

しかしながら、社会のルールに従い、他人に迷惑をかけないのは”外人”としてこの国に住んでいる自分の最低限の努めである。それに、今回はたまたま正直の連鎖で問題が見える化して自分がF4認定になったが、もしかすると別の経路で自分は既にF2になっていたのかもしれない。そんなことを考えて、当然のようにアパートの大家さんに事実を伝えた。その後の話は以前書いたので省略しよう。

こんな状況ではあるのだが、幸いなことに仕事は忙しさを極めており、家の中で暇を持て余す余裕などないので、時々落ち込んだりするものの基本的には安定している。倒立腕立て伏せをやったりして多少の運動もしている。

もっぱら気になっているのが世界の分断とその背景だ。

アメリカがWHOに対して資金拠出を停止したとのニュースがあったり、それに絡む台湾の地政学的立ち位置について学んだり、生活必需品の逼迫が各地で起こっているニュースを読んだりした。

最近は感染に関する映画も何本かみた。

「28日後...」

「28週後...」

「アウトブレイク」

「コンテイジョン」

「28日後...」

トレインスポッティングのダニー・ボイル監督作品で、あのみずみずしさと世界一汚いトイレとが混ざり合うような不思議な感覚が、今回はまた違った形で表現されていた。感染症(といってもゾンビ系)の恐怖の先にある人間の根源的な破壊思想、動物的本能(1個人の中での文明の喪失とその連鎖)をあぶり出しているが、最終的には島国イギリスだけの問題だったようで、案外あっさりと平和に解決する。

「28週後...」

先述の続編的な位置づけで、国内の生存者たちがアメリカ軍によって保護されているロンドンに、当時たまたま外国にいて被害をまぬがれた人たちが帰ってきて、これから再建を始めましょうといっているところに再び感染が広がり、コードレッド=皆殺しが決定される。特殊な抗体を持っている可能性がある子どもたちを中心に話が進むが、彼ら自身は既にホスト(宿主)になっていて、結果的にそれがパリに飛び火して、というちょっと怖いエンディングを迎える。

この映画では、人類の圧倒的な破壊兵器によって感染を封じ込めようとする強者の理論と、それは人道的に正しくないと信じるまともな人間心理を持った勇気ある登場人物たちの多くの犠牲の上にパリに飛んでいった子どもたち(ホストになってしまっていた)が世界的パンデミックを引き起こした(引き起こすであろう)、という救いようのない構造である。

ロバート・カーライルがいろいろな場面で無敵なものだから自体が加速度的にエスカレートしていくのだが、それは置いておいたとしてもこの場合における最善の策は何だったのかと考えるに、科学的根拠をもっと重要視して、セキュリティを厳重にすべきだった、と考えたものの、そういえばあの医者が抗体の研究のために感染者を生かしておきたいといったときに将軍は死体で研究しろと言っていたのだ!そうか、あのときにさっさと始末していれば、、、と思ったが、今は事後対応策について考えるべきなのでもう一度それは置いておこう。

個人的な見解としては、皆殺しサイド(米軍)と抗体サイド(草の根的善意の集団)両者の協力関係が早期に築かれて良好なバランスが保てていればよかったと考える。あるいは、皆殺しサイドはやるならやるで徹底的に草の根まで焼き尽くしておくということも出来ただろう。人間もウイルスも賢いので、後者のパターンで核爆弾を落としていたとしても再発の萌芽はどこかに残っているに違いない。そのときに抗体の研究が出来ていないと再びパンデミックが起こるだろう。前者の場合、比較的ダラダラと感染症との戦いが続きながらも、決定的な治療薬が将来的には見つかるであろう希望が見える。

「アウトブレイク」

かつて戦時中にアフリカの宿営地で広がった謎の感染症。米軍はウイルスの採取をした後、なんと空爆をして感染者も非感染者もウイルスも何もかもなかったことにしてしまった。数十年後、突如類似の感染症が発生する。感染拡大と隔離政策が取られる中再び米軍は大統領承認付きで封じ込めのための空爆に踏み切ろうとするが、勇気ある主人公達の超人的な活躍によってホストである猿から抗体を作って更には空爆を体当たりで阻止してハッピーエンド、というハリウッド的超大作。

今回はゾンビ系の感染症ではなく、いま我々が直面しているコロナウイルスのような、といってもその数十倍は恐ろしいウイルスを相手にしており、米軍と政治という観点が大きく影響している。手に汗握る展開と派手なアクションシーンも飛び出すので娯楽映画として非常に面白いのだが、先述の2作品にはなかったウイルスとの戦いの背後にある政治的な駆け引きが描かれているので、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)の立ち位置などがわかり、現実味を帯びてくる。

そういえば、ケヴィン・スペイシーは助かったのだろうか。。。

「コンテイジョン」

トラフィックやエリン・ブロコビッチ、オーシャンズシリーズで知られるスティーブン・ソダーバーグ作品。先述「アウトブレイク」の現代版とも言われており、豪華キャストが断片的に世界の感染状況を伝えながら原因追求と治療薬の発明とその後の世界を描く。

恐ろしいほどに現在の状況に酷似しており、一瞬鳥肌が立ちそうになった。

幸いなことに、自分の知る限りでは(インドの警察官絡みの暴動を除き)一部の民衆が暴徒化したり、都市レベルで警察機能が停止してしまうような治安悪化は世界でいまのところ起きていないようなのでそれは人類の1人としてとてもうれしく思う。この映画で描かれていなかったのは経済の問題である。現在我々が直面している問題は感染による死の恐怖ではなく、その後の世界での経済活動、あるいは現時点での経済状況が最大の論点だ。それはコロナウイルスが映画の中のウイルスほどまでには恐ろしいものではないから。

さて、この映画ではCDCの他現在現実世界でも渦中のWHO、そして国と国、地域と地域、人と人との対立が強烈なリアリティを持って描かれている。

マリアンコティヤールがWHOから派遣されて香港で原因追求が済んでスイスに帰ろうとしたときに現地のカウンターパートだった香港人男性とその郷土の仲間たちに拉致されてしまう。ワクチンを自分たち郷土の仲間たちのために優先的に流してもらうための取引材料として囚われるのだが、実際は自然豊かな田舎で子どもたちに勉強を教えたりしてそれなりに愛着が湧いてきているようだ。もしかしたらこの香港人と関係を持っているのかもしれない。いかんせん彼女はとんでもなく魅力的だから。ワクチンの闇取引が済み、無事スイスへ帰ろうとしている空港であれは偽物だったと告げられて、即座に彼女が席を離れ(おそらくあの村に戻るのだろう)、歩き去っていくシーンは秀逸だった。少々感傷的かもしれないが、人の心が荒廃するなか、さらにそのどん底を突きつけられた後に人間愛と呼べるようなものを感じていた場所に戻っていくマリアンコティヤール。多分これが彼女ではなかったら全く別の印象を持っていただろうが。

閑話休題。この映画では科学的な根拠に基づく描写、そして日数を含めた数字が多用されるので現在我々が毎日新聞記事を追っている状況を追体験しているように感じられる。この映画自体は2011年の作品なので10年近く前の映画を見ることで現実を追体験するという謎の時間軸ではあるが。

更に、実際にCDCやWHOで起こっていそうな会議や駆け引きが描かれているのもリアリティを増す。

驚くほど素晴らしい順番でこれらの映画を見ることが出来たので、質、量ともに満足して現実世界の理解の一助となった。

そこにきてこのWHO出資問題である。劇中でも多少触れられているように、パニックを避けるため、とか国と国の関係を考慮して、なんていう政治的な駆け引きの末にためらいが発生し、初動に遅れが出るし、その後の対応も判然としない。それはひとえにこれらの機関が独立したものでなく、共同出資によるものだからという原因がある。これは株式会社の方針が大株主の一言に左右されるのと同じ構図で、残念ながら手綱は金と政治に握られているのだ。

それでは別の方法はなんなのかと考えてみたが、経済的な独立をすることは研究機関にとって不可能であるし、人様の意見や反応を全く考慮しないで己の見解を発表するということは不可能だ。もし出来たとしてもそのような人、または機関はオオカミ少年扱いされてしまう。映画「アウトブレイク」ではダスティン・ホフマンが熱血研究者で超人的活躍でほぼすべて1人で解決してしまうが、それはハリウッドの中だけでの話だ。

そんなことを考えていると当然簡単な解決策などは存在しないし、そもそもそんなものが自分の頭で考えられるくらいだったら今頃自分は偉い人間になっているか、世界がとんでもなくおバカな事になっているはずだ。それでも、問題の根本にあるのは「世界の分断」であり、愛と寛容と信頼の欠如だ。

アンパンマンみたいな世界観かもしれないが、人間が持つ愛でもう少し良い世界を築けるのではないだろうか。

無論「28週後...」のようなことは避けなければならないが。

Latest

タグ検索
bottom of page