愛することへのおそれ
以前こんなことが起きた。
好きな女の子が出来て、とにかく目がくらんでいた。
ある一週間は毎朝5時くらいに目が覚めてしまった。
彼女のことを考えると眠ってもいられなかったのだ。
20代後半にして中学生のようなこんな気持が全速で自分を支配していることに喜んでもいた。
その時、なぜ自分がこんなにもこの女の子を好きなのかと分析してみた。
そして5つの素晴らしい理由が浮かび上がった、というか作り出した。
ひねり出したわけではないし、作り上げたわけでもない。浮かび上がるようにして作り上がっていった。
そして早速これを文章にまとめ、ある日の昼休憩中に彼女に送りつけた。
そういえば、彼女がなぜ私のことを好きなのか、と聞いてきたから考えていたのだった。
この作業をしているときの自分の興奮っぷりときたらなかなかのものだった。
ところが、この5つの素晴らしい理由たちをLINEで送ってしまった瞬間からあんなにも激しく燃えていた彼女への愛情はぽしゅんとすぼんでいった。
そんな話を友人にしたところ、彼の元彼女は、彼女が愛する彼の100の理由を書いた手紙を送ったそうだ。彼の説明を聞いてみると、理由というよりも事象、といったところだったが、好きな相手の100の事象あるいは理由を手紙に書けるかと聞かれると甚だ回答に困ってしまうと思う。その彼女はすごいと思う。
こんな経験があってから(その他にも多々のエピソードを経て)、自分の中にある人を愛する能力というか、器の大きさとか、そういうものに疑問符がついてしまったのだ。
全力で、そして全身体を使って愛しているとしても、それが持続するものなにかとか、いつその愛が方向を違えるのかわからないとか、一つの対象にだけ向けていられるのかとか、そもそもそれは相手に向かっているベクトルの愛なのか、アンコンディショナルラブと言いながら前提に見返りを求めているとか、いろいろ考えてしまう。
いまも昔も、そしてこの先もこんな気持を背負って生きていくことが人間の宿命なら、それはそれで受けて立とう。
私は恐れている。しかし私はやめない。