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祈ること

ベトナムに来てから(Lyちゃんに連れていかれることがメインで)寺院に行ってお祈りすることが増えた。

日本にいた時も初詣とか旅行先で寺社仏閣に寄って祈ることもままあったが、意識の上で大きく変わったのは周りの人が本当に真剣に祈っていることだ。ぶつぶつ言葉に出して目を開いて合唱した手を振ったりしながら祈るスタイルのベトナムで、当然なんのことを祈っているのか知る由もないのだが、Lyちゃんのお母さんが自分の試験に関して祈ってくれたり、入院していた祖母のために祈ってくれたりしていたのを知って、これまた祈りに対する姿勢がガラッと変わった。


いままでは、試験に合格しますようにとか彼女が出来ますようにとか、幸せな生活が送れますようにとか自分のことしか祈っていなかった。自分のことは自分の出力次第でどうにでもなるので、神頼みする必要もないけど、せっかく寺に来たから祈っておくか、くらいの気持ちであった。とはいえ、この当時の祈りにたどり着くまでにももう一つ大事な経験があった。

それは、大学一年生の時に自宅にホームステイに来たメキシコ人のカルロスと仲良くなり、家族旅行で次の年にメキシコの彼の住む町まで遊びに行ったときの話だ。

彼は地元の教会に連れて行ってくれたのだが、お祈りしようにも日本語で何か言ってもメキシコの神様はわからないじゃないか、と言ったところ、神様は言語に関係なくその人の気持ちを察しとるから気にしなくてよいんだというようなことを言っていた。それは言語に縛られていた自分の祈るという行為を大きく変えて、新しい視座をもたらしてくれた。

それからというもの、祈るときは必ずイメージを思い浮かべてニコッとしたりするようにした。


それでも、神頼みというのはもともとあまり好きでなかったので、真面目とはいえない姿勢で祈っていたことは確かだった。祈りつつも、なんでこんなことしているんだ、そんな意味がどこにあるんだ、とか考えていたのだ。

が、しかしである。

Lyちゃんのお母さんは人のために祈ってくれるのである。いつも。

自分も家族と離れて暮らすようになり、彼らの安心安全を考えざるを得なくなったり、祖母が病気になったとか、いろいろと自分以外の他人に目がいくようになっていき、自然と祈る内容は他者のためになっていた。

そうなると、神頼みの意味が俄然上がってくるのだ。

祖母の病気は自分ではどうにもできないし、両親の安全も自分にはどうにもできない。だから祈るのだ。

もしかすると、30年以上かけて、もっとも原初的な場所にたどり着いた私はあまりにもスローすぎるのかもしれないが、こんなに美しいことはない、といまはとてもうれしく思って人のために祈っている。


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